第1講「恋愛法とは何か」

1 はじめに
 本講では、恋愛法学という学問の研究対象や目的について概説をする。恋愛法学の歴史は浅く、未だ十分な議論の積み重ねはないため、その輪郭や研究の意義について確固たる共通認識が存在するわけではない。筆者は、恋愛法学を創始した張本人であるものの、「恋愛法学とは何か」という根本的な問いに対して、一義的な答えは持ち合わせていない。我々は、スタート地点から早くもこの難問に取り組まなければならないのである。

2 恋愛法とは何か
(1)社会規範としての恋愛法
 世間では一般的に、「恋愛法」という言葉は、「恋愛を上手く成就させるための方法」という意味で用いられる*1。この用法に従うならば、「恋愛法学者」は、恋愛について達人並みのテクニックを持ち合わせていることになろう。しかし、残念ながら、筆者はそのようなテクニックを持ち合わせてはいないし、本ブログで扱う「恋愛法」はそのような意味のものではない。
 本ブログが扱う「恋愛法」とは、我々の社会における、恋愛生活において妥当するルール(社会規範)の総称を意味する。およそ社会や集団には、その成員に遵守が期待される行動のルールが存在する。この「社会規範」と呼ばれるルールは、人々に他の成員の行動に関する予測可能性や期待をもたらし、彼らの生活に安定をもたらすものである。そして、このような行動のルールは、「恋愛」の関係の中にも存在する。すなわち、我々が他者と恋愛関係を構築する際には、当然に遵守されるべきルールの存在を前提に行動し、また、その遵守を他者にも期待している。さらに、その期待が破られれば、他の社会規範におけるのと同様、ルール違反者に対して、我々は「非難」を差し向けるのである。
 もちろん、このような見方に対しては異論もあり得るだろう。すなわち、どのような恋愛をするかは、人ごとにさまざまであり、個人の自由に完全に委ねられるべきであるため、恋愛において遵守が一般に期待されるルールなど社会には存在しない、という理解である。このような理解は、社会における「自由恋愛」の浸透とともに、今日では有力な考え方であると言えよう。このような考え方を、「恋愛リバタリアニズム」と呼んでおきたい。
 確かに、そもそも他人と恋愛をするかどうか、するとして、どのように恋愛をするかが、基本的に個人の自由であることは、全くそのとおりであろう。しかし、ひとたび他人との間で恋愛関係に入る場合に、パートナーを不必要に傷つけるような「自由」まで尊重すべきであるとは思われない。そのような自由を規範的に否認することで、恋愛における無用な苦痛や悲しみを除去することは、「自由恋愛」の否定ではなく、むしろ「自由恋愛」の補完なのである*2。もちろん、恋愛に対する過剰な規範的拘束が、人々の恋愛の自由を奪い、その活動を萎縮させるような事態があってはならない。しかし、そうであるからこそ、我々は恋愛における社会規範の存在を正面から認めたうえで、その限界について考察を巡らさなければならないのである。恋愛リバタリアニズムからの異論は、恋愛における自由を強調しすぎるあまり、この必要な考察から目を逸らすことを、「自由恋愛」という標語のもとで強引に正当化している疑いがあるように思われる。

(2)行為規範と制裁規範の区別
 他の社会規範と同様に、恋愛に関する行動のルールも時には破られる。このような事態を放置したのでは、規範に対する人々の信頼は損なわれ、他者の行動に対する予測や期待も失われてしまうだろう。それを避けるためには、動揺させられた規範の安定性を回復するための措置を講じなければならない。そのような措置として行われるのが、規範違反者に対する「制裁」である。
 規範違反者に対する制裁の内容としては様々なものが考えられる。口頭で、彼の行為に対する否定的な価値評価を伝達(非難)するだけという場合もあれば、それに加えて、何らかの苦痛や不快感を与える措置(殴打や絶交など)を講ずるという場合も考えられるだろう。いずれにせよ、ここでは、闇雲に制裁を加えればよいというわけではなく、制裁の内容も、規範の安定を回復させるために最も適合的なものでなければならない。とりわけ、制裁は、規範違反の程度に見合ったものである必要があろう(罪刑均衡原則)。適切な刑量を逸脱した不当に重い制裁は、規範違反者の「納得」を得ることができず、その反省や悔悟をむしろ阻害してしまうばかりか、他の構成員に対する説得力も失い、規範への信頼を回復する措置として不適切である。
 このように、規範違反者に対して、どのような程度・内容の制裁を加えるべきか、また、制裁を発動するための要件は何かという点についても、人により判断がバラバラというのでは困るのであり、やはり一定のルールを必要とする。この、制裁に関するルールは、「行為規範(Verhaltensnorm)」とは区別して、「制裁規範(Sanktionsnorm)」と呼ばれる*3。制裁規範は、行為規範を維持するのに資することで、間接的に社会の成員の利益を維持する、二次的なルールと位置付けることができよう。なお、広義の恋愛法には、恋愛に関する行動規範と制裁規範のいずれも含まれるが、一般的に「恋愛法」という場合には、恋愛に関する行為規範のみを指すことが多い(狭義の恋愛法)。本ブログでも、特に断りがない限りは、恋愛法という言葉をこの狭義の意味で用いることにし、制裁規範の方を指す場合には、「恋愛制裁法」という用語を用いることにしたい。

3 恋愛法学の意義
(1)学問としての恋愛法学
 それでは、恋愛法に「学問」として取り組むことの意義はどこに求められるのであろうか。恋愛法に限らず、多くの社会規範は上述したような構造を有している。「恋愛」に特化した形で、社会規範を切り出して、独自に学問化することの意義が問われなければならないであろう。
 言うまでもなく、恋愛をするかどうかは、個人の自由である。他人におよそ恋愛感情を持たない者もいるであろうし、恋愛と関わらない生き方を選択する者もいるであろう。しかし、恋愛をする人間にとって、それが社会生活における重要な部分を占める営みであることは、疑いがないように思われる。特に、恋愛に熱中する者は、1日の大半にわたって恋愛のことを考えているであろう。恋愛は人の生き方そのものに大きな影響を与える。それは、人生を幸福に謳歌するための営みになることもあれば、全く逆に、人を絶望の底に突き落とし、生きる気力さえも奪ってしまうこともある。恋愛という営みが、我々の社会生活において与える影響の大きさを考えれば、これを切り出して、本格的な研究の対象とすることには十分な理由がある。
 とりわけ、日常生活において「恋愛」が語られる場面においては、剥き出しの感情に支配されてしまうことが少なくない。このことは、恋愛そのものが、感情渦巻く営みであることに鑑みれば、当然のことである。しかし、そのような感情任せの恋愛トークをするだけでは、恋愛法の内容に関する正しい認識へと到達することは困難である。また、恋愛法に違反した者に対する制裁が感情任せに行なわれれば、行為規範の信頼の回復という、制裁規範に与えられた本来の目的の実現は阻害され、ただ非難者の感情的な満足だけが残されることになろう。
 恋愛法に「学問」として取り組むことの意義は、このような感情的な成り行きに振り回されることなく、論理的に規範の内容や構造を分析し、それらを体系的に整理することに求められる。これにより、恋愛法に関する問題について、合理的な討議を可能とするような、思考の枠組みを構築することこそが、恋愛法学に与えられた使命なのである。

(2)恋愛法学の課題
 恋愛法学の課題は、まず、我々の社会において現に妥当している、恋愛に関するルールを「発見」し、客観的に記述することである。そのような作業は、現に恋愛をしており、その行動のあり方に迷っている者に対して、必要な指針を提示することに資するであろうし、恋愛法に違反した者に対する、合理的な制裁の方法を検討する場面でも、必要な知見を提供してくれるだろう。
 このような「法の発見」に加えて、将来に向けた「法形成の方向づけ」も恋愛法学の課題に含めることができる。伝統的に形成されてきた恋愛ルールの中には、古臭いジェンダー規範にとらわれたような(「男(女)なら◯◯すべき」)、今日では正当性に疑いのあるものも少なくない。そのような規範に対して、その合理性や正当性を検証し、場合によっては、現時点で妥当している社会規範の改廃を考えることも必要である。その意味で、恋愛法学は、既存の社会規範に対する批判機能も担わされているのである。
 なお、以上の説明では、「法の発見」それ自体と「法形成の方向づけ」の区別を前提としているが、実際には、両者の区別が常に流動的であることにも注意しなければならない。すなわち、我々が「何が法であるか」を認識する作業の中には、「何が法であるべきか」に関する我々の考え方が必然的に反映せざるを得ない、ということである。我々の社会は、規範の発見と個別事例への適用を繰り返す中で、社会の望ましい発展に向けて、規範を常に修正し続けているのであり、それが規範の形成過程にほかならない。したがって、「法の発見」と「法形成の方向づけ」の区別を殊更に強調することには、あまり意味があるとは思われないのである。両者の区別は、既存の規範の外延が明確であり、その正確な認識が可能な領域では一定の意味があろうが、規範そのものの内容が流動的な領域では、法発見と法形成の方向づけが実際には重ならざるを得ない。とりわけ、価値観の多様化により、恋愛のルールの内容自体が動揺している現代では、「法形成の方向づけ」という視点を一切抜きにして、純粋な「法発見」のみを行う作業は不可能である。このことから、筆者は、「法発見」と「法形成の方向づけ」の一応の区別は認めつつも、両者に一体として取り組むことが、恋愛法学の課題であると解している。
 もちろん、「あるべき恋愛法」の探究にあたっては、学際的な考察が不可欠となる。例えば、恋愛に関する哲学的な知見のほか*4、科学的・心理学的な分析も必要となろう*5。その意味で、恋愛法学を修得しようとする者には、恋愛全般に関わる幅広い視野と知見が求められるのである。

【コラム 恋愛法学の起源】
 筆者が、恋愛法学に関する最初の論稿である「恋愛法序説」を投稿したのは、2012年3月24日のことであった。交際の解除に「正当事由」を必要とすべきではないか、という議論をしたのがその契機であり、当時はその違反に罰則を設ける「立法」をすべきであるという(明らかに問題のある)主張をしていたが、これは完全に若気の至りである。このような主張は、「恋愛法」を、恋愛に関する「法律」とする定義から、「社会規範」とする定義に移行する中で、消滅した。
 なお、以上の「正当事由」論は、当時法学部の学生であった筆者が、建物賃貸借契約の解除に正当事由を要求する借地借家法(28条参照)に着想を得たものである。その意味で、借地借家法は恋愛法の産みの親といえなくもない。

*1:このような意味で「恋愛法」という言葉を用いているものとして、一条ゆかり=高梨聖昭=竹内夕紀『「超」恋愛法─恋をするなら若い男と』(講談社、1996年)がある。

*2:宗岡嗣郎「自由の法理」三島淑臣教授古稀祝賀『自由と正義の法理念』(成文堂、2003年)57頁は、「自由」とは、単に「自分のやりたいようにやる」という恣意的なものではなく、「現実的な強制システムとしての社会に客在する規範的拘束の中で『できること(das Können)』」として把握されなければならない、とされる。

*3:我が国の刑法学において、行為規範(行動規範)と制裁規範の区別を犯罪論の基礎に置くのは、高橋則夫『規範論と刑法解釈論』(成文堂、2007年)1頁以下、同『刑法総論〔第2版〕』(成文堂、2013年)7頁以下、増田豊『規範論による責任刑法の再構築』(勁草書房、2009年)7頁以下。

*4:恋愛哲学についての代表的な著作として、荻野恕三郎『恋愛の哲学』(南窓社、1998年)。

*5:「恋愛学」と呼ばれる学問分野では、進化生物学や進化心理学、さらに社会学、経済学、政治学等を含めた統合的な見地から恋愛を体系的に考察することが試みられている。基本文献として、森川友義『なぜ、その人に惹かれてしまうのか?―ヒトとしての恋愛学入門』(ディスカヴァー・トゥエンティワン、2007年)、同『早稲田の恋愛学入門』(東京書店、2012年)等を参照。