第2講「恋愛法における保護法益」

1 恋愛法と法益概念
 恋愛法における行動規範には、恋愛の当事者に対して、一定の行為を禁止する行動規範と、一定の行為を命令する命令規範が含まれる。いずれの規範も、恋愛の当事者の行動の自由を一定の範囲で制約しようとするものである以上、そのような制約を正当化するための根拠が必要である。具体的には、少なくとも、こうした規範による行動の制約が、パートナーの重要な「利益」の保護にとり役立つものでなければならない。誰の得にもならないルールを設定することは、まさに「誰得」であり、規範の正当性を欠くことになる。
 この、恋愛「法」で保護が目指される重要な利「益」のことを、「法益」と呼ぶことができる*1。「法益」概念は、恋愛法で禁止・命令される行為の内容を合理的に限界づけることに資する。すなわち、恋愛当事者の行為は、恋愛法における保護法益の侵害に結びつく限りで、規範的な統制の対象とされるのに対して、そのような結びつきを持たない行為は、恋愛法による統制の範囲から除かれることで、その自由が保障されるのである。

2 保護法益の内容
 もっとも、恋愛法における保護法益が何であるか、という点については、議論の余地がある。一つの考え方としては、恋人(パートナー)の「感情」を法益として措定すべきという理解があろう(感情保護説)*2。恋愛において傷つけられることにより生じる感情的なショックは、日常生活で一般に生じうる感情的な不利益と比較しても、とりわけ顕著なものであり、時にその者の生活に対して深刻な支障を与えることも少なくない。そのような侵害の深さに鑑みれば、「感情」利益に着目した上で、これを恋愛法における行動統制の基準に据えることには、合理的な根拠があると言えよう。
 これに対して、「感情」という主観的な利益は、その抱き方が人により様々であり、行動統制の指針とすることが困難であることから*3、むしろ、恋愛当事者間に客観的に存在している「交際関係(の維持や存続)」こそが保護法益の内容として相応しい、という理解もありうる(関係保護説)。交際関係が続くことは、それ自体が、人々が安定した社会生活を送るうえで有益なものであり、これを破壊する行為が、恋愛法における禁止の対象であると考えるのである。この理解によれば、恋人の感情は、交際関係の維持や存続が保護される結果として、反射的に保護されるにすぎない利益ということになろう。
 しかし、当事者の「感情」とは切り離して、交際関係それ自体を恋愛法の独立の法益とすることには、看過できない問題があるように思われる。関係保護説によれば、当事者の感情とは無関係に、一定期間の交際が継続した場合には、そのような関係に法益性が付与され、これを一方的に破棄することが許されないことになろう。しかし、例えば、当事者の恋愛感情が冷え切っており、ただ形式的なパートナー関係だけが継続しているという場合(いわば、「仮面カップル」の状態)に、そのような関係を、恋愛法規範を通じて保護することに合理的な理由があるとは思われない。他方で、関係保護説を徹底すると、交際関係さえ破られなければ、その中でいかにパートナーを精神的に傷つける行為が行われても、それは行動統制の範囲外ということになるが、このような帰結も妥当とは言い難いであろう。
 そもそも、関係保護説の背後にある、関係を終わらせる(=別れる)行為が、恋愛法違反の典型であるかのような想定自体にも疑問がある。関係保護説は、恋愛関係を、いわば既得権益的に捉え、その固定化を志向しようとするものといえるが、その背後にあるのは、スタティックで退屈な恋愛観である。むしろ、恋愛関係は、その進展や時間的経過により変容することが当然に予定されるものであり、その「終焉」にも可能性が開かれていなければならない。このようなダイナミックな恋愛観からすれば、「終わりは、新たな始まり」であり、別れる自由は、むしろ恋愛法においても最大限尊重されなければならないのである。
 このような難点を克服するためのアプローチとして、関係保護説からは、その内容を修正し、あくまでも「保護に値する」関係の継続のみが法益になりうる、とする理解もありうる。すなわち、単に、事実上交際関係が続いている場合に、その全てが保護の対象となるのではなく、規範的な見地から、その継続が保護に値すると考えられる場合のみ、法益性を獲得するという理解である(修正された関係保護説)。この理解からは、例えば、当事者の一方(ないし双方)が恋愛感情を喪失しており、別れを望んでいるような場合には、両者の交際関係の規範的次元における要保護性が否定され、その解消を合法的に認めることができるとして、「別れる自由」を擁護する説明が可能となろう。
 しかし、このような修正された見解によれば、交際関係に法益性が認められるかどうかは、「規範的に保護価値があるか」という、判断者の裸の価値判断に完全に委ねられてしまい、それこそ、法益概念が果たすべき、行動統制の範囲を画するための指針としての機能は完全に損なわれてしまう。また、そもそも、関係保護説の説明によれば、関係の継続それ自体に保護価値があるという発想が前提とされているのであるから、その要保護性が、当事者の恋愛「感情」の有無によって左右されることの根拠は内在していないはずである。結局、このような修正説は、論者が妥当と考える行動統制の範囲を後付けで正当化するために法益概念を用いるものに過ぎず、支持できない。
 以上の検討によれば、基本的には、感情保護説の優位性が認められるべきであろう。確かに、関係保護説が懸念するように、感情の抱き方は人により様々であるが、通常人を基準として、その感情侵害に結びつく危険性がある行為を特定することは、それほど困難なことではなく、経験的に把握することも十分に可能といえる*4
 もっとも、パートナーの感情を侵害する危険性のある行為が、全て恋愛法における禁止の対象になるわけではない。当該行為が、別の(対抗)利益の実現に向けられており、感情侵害という反価値を上回るだけの有価値が認められるのであれば、当該行為への禁止は解除され、許容される場合がある。「別れる行為」についても、多くの場合は、パートナーの感情を傷つけることがあろうが、「別れる自由」にそれを上回る価値を認めることにより、その正当化を肯定することが可能となるのである。
 この点で、感情保護説も、法益概念のみで、行動統制(禁止)の範囲を完全に限界づけられるわけではないことには注意が必要であろう。もっとも、このような場面でも、衡量の対象となる具体的利益の内容が可視化されることにより、価値判断の過程が見えやすくなる点は重要である。他方で、修正された関係保護説のように、法益概念そのものに「保護に値するか」という規範的な要素を読み込むことで、問題の解決を裸の価値判断に委ねるようなやり方は、この点でも支持することができないのである。

【不快原理】
 精神的不快を根拠とした自由の規制を正当化できるかは政治哲学上の難問である。そのような規制を正当化する原理として「不快原理」を提唱したファインバーグは、不快行為の犯罪化について、「不快の深刻度」と「行為の合理性(reasonableness)」を比較検討して決定すべきであるとしていた。すなわち、不快の深刻さ(大きさ、回避困難性、被害者の同意不存在)が、行為の合理性(行為の社会的価値、代替手段の可能性、動機)を上回る場合には、国家の干渉が正当化されるのである(Joel Feinberg, Offense to Others, 1985, pp.34-44.)。恋愛法学は、国家的な規制の正当性を問題とするものではないが、感情保護説の立場から、精神的不利益を理由とする行動統制の正当化範囲に関心を寄せるかぎりで、ファインバーグによって提唱された上記の基準は、参考になるものであると思われる。

3 感情侵害説の危機?
(1)浮気のアポリア
 感情侵害説は、「恋人の感情」を侵害する危険性のない行為を、規範的統制の対象から除外することで、自由制約の範囲を合理的に限界づけることに資する考え方といえるが、こうした理解を採ることで、説明が困難になるのが、次の浮気の違法性をめぐる問題である。
 感情保護説によれば、浮気行為が、恋愛法的に許されないことの根拠は、それが将来発覚した場合に、恋人の感情を深く傷つけてしまう点に求められるであろう。このような理解を一貫させるのであれば、浮気の事実が発覚するおそれが全く存在しないのであれば、交際相手の感情を侵害する危険もないため、理論上は、恋愛法には違反しないことになる。しかし、「バレない浮気ならやってもいい」というのは、我々の直感には明らかに反するであろう。この「浮気のアポリア」をどのように解決するかが、感情保護説の課題となる。
 もちろん、現実問題として、発覚する可能性が皆無の浮気など存在しない、という見方はありうるだろう。仮に、客観的な証拠が何一つなくても(そのような場合がそもそも想定困難だが)、本人が罪悪感から「自白」することで発覚してしまうという可能性まで考えれば、発覚の抽象的な可能性は常にあるとも言える。しかし、現実問題としてはそのように言えても、このような説明によるだけでは、少なくとも「バレない浮気ならやってもいい」という命題そのものは真であるとして認めることになってしまう。これでは、「浮気のアポリア」を真に解決したことにはならない。

(2)義務侵害モデルによる説明
 この「浮気のアポリア」を解消するための説明の一つとして、次のようなものが考えられる。すなわち、「浮気をしてはならない」という行動規範そのものは、浮気行為が恋人の「感情」を侵害する危険性があるために設定されたものであるが、ひとたびこのような規範が社会において承認された以上は、個別事例において、感情侵害の危険があるかどうかとは無関係に、その行動義務が遵守されなければならず、「バレない浮気」もこの義務を侵害する以上、恋愛法に違反するものと評価される、という説明である。このような説明は、個々の事例で法益侵害を要求せず、一度課された「義務」それ自体の侵害のみを問題にするものであることから、「義務侵害モデル」と呼ぶことができよう。
 この義務侵害モデルの説明に対しては、個別事例における感情侵害(の危険性)を不要とすることの根拠が問われなければならない。恋愛法による行動統制が、利益の保護に向けられることで正当化されるという功利主義的な発想からすれば、個別事例においても、感情侵害の危険を要求するのが本来の筋である。パートナーの利益の保護に役に立たない場合にも、その規範がひとたび設定されたという理由だけで、義務的拘束を強いるのだとすれば、それはやはり「誰得」と言わざるを得ないのではないか、という疑問があり得よう。
 もっとも、この義務侵害モデルは、功利主義の観点からも正当化する余地が全くないわけではない。個別事例で感情侵害(の危険性)を要求する立場によれば、浮気をしようとする行為者が、当該事例において、浮気が発覚する可能性はないと思い込んでさえいれば、恋愛法による規範の声が行為者に届くことはなく、その効力は無力化されてしまうであろう。要するに、行為者が「バレないから、やってもいいや」と思い込めば、それまで、ということである。しかし、実際には、人間の認識能力は完全なものではない。特に、行動経済学が明らかにしているように、我々人間には、自己の置かれた状況を楽観的に評価しようとする、心の癖がある(楽観性バイアス)。こうした認知の歪みにより、「浮気が発覚する可能性」について楽観的な評価がなされてしまった場合にも、規範が無力化するというのであれば、恋人の感情の保護という恋愛法の目的を十分に果たすことも困難であろう。
 これに対して、義務侵害モデルによれば、個別のケースの状況とは無関係に、「浮気をしてはならない」という規範それ自体に妥当性が認められ、行為者が発覚の可能性をどう評価しようとも、その効力が失われることはない。このように、具体的な利益状況とは無関係に、規範それ自体の尊重を行為者に求めることにより、結果的に、より確実に潜在的被害者の感情利益が侵害されることを防止することに役立ち、功利主義的にも最善の帰結を実現することが可能となるのである*5
 このことは、母親が子供に「赤信号を守りなさい」としつける場合になぞらえることができる。この場合に、交通事故に遭い、彼の利益が損なわれる危険性をいかに強調しても、状況の認知・把握能力の未熟な子供は、個別のケースにおいて、「この赤信号を無視しても、きっと事故に遭うことはないだろう」と軽率に誤信し、道路に飛び出してしまうことがあるかもしれない。そこで、子供の利益の安全をより確実に実現するためには、事故に遭う危険性を強調するのではなく、とにかく「赤信号を渡ってはならない」という教えを「絶対的な決まり事」として、(時に、守らなければ夜に現れる「お化け」の力を借りて)子供に定着させることが合理的なのである。この際に、母親は、子供の利益とは無関係に、決まり事を押しつけているのではない。あくまでも子供の利益を最大限に維持するために、「赤信号を渡ってはならない」という規範を、それ自体として絶対化しているのである。
 ただ、この例からも分かるように、「義務侵害モデル」の説明は、欺瞞的な性格を有している。すなわち、子の利益を維持するためとはいえ、「本当の目的」を前面には押し出さずに、義務そのものを絶対化することで、それに従順になるように子を仕向けているのである。そのような教育のあり方の是非は検討を要するが、少なくとも、このモデルが、規範の名宛人に対する「不信」に根ざしていることは確認されてよい。母親が、子供の状況把握能力への不信から、「お化け」の力を借りつつ、規範を絶対化させるように、浮気禁止という規範それ自体を絶対化するのも、浮気しようとする行為者が、その発覚の可能性について正しい判断ができないという不信に基づいている。このような、構成員の「自律性」を尊重しないモデルが、果たして長期的に、構成員の規範尊重意識を維持できるのかは、疑問なしとしない。

(3)「新しい法益」論の可能性
 このように考えると、やはり、規範の目的を感情の保護に求める以上は、個々の事例でも感情侵害の危険性を要求すべきであると思われる。そこで、このような理解を一貫させて、「バレない浮気」は許される、という結論を正面から認めるのも、一つの立場としてはあり得る。しかし、このような「開き直り」に甘んじてしまう前に、そもそも、恋愛法における保護法益が「感情」のみに尽きるのか、という点については再考の余地があろう。
 確かに、むやみやたらに新しい法益を設定してしまえば、「法益」概念が持つ、行動統制の範囲を限界づける機能が損なわれてしまうであろう。例えば、ここで「浮気されない権利」も法益に含めるべきだ、などと言い始めれば、およそすべての行為が、「◯◯されない権利」を侵害するという形で、恋愛法違反性が肯定されてしまうことになりかねない。
 しかし、行動統制の明確な指針としての法益概念の機能を損なわない限りで、保護が必要なパートナーの利益の法益性を承認し、行動規範の設定においてこれを取り込むことは、必ずしも不適切なことではなく、むしろ必要であろう。その限界は厳格かつ慎重な見定めが必要であるが、「感情」以外の利益の保護が恋愛規範システムから排除されなければならない、という必然性はない。
 そこで、「新しい法益」として、どのようなパートナーと交際するかについての、相手方の自己決定権を認める、という理解がありうる。もちろん、相手方のすべての属性について知った上で交際をするかどうかを決める自由を常に保障すべきとするのは、現実的とは言えない。そもそも、我々には、交際に際して、自分が相手にどう思われたいかというセルフイメージを自ら形成する権利があるはずであり、恋愛関係に入るからといって、自己のプライバシーに関する情報をすべて相手に開示しなければならない、とは言えないであろう。しかし、「浮気をするような」人間かどうかというような、いわば「交際の判断の基礎となるような重要な事項」については、知る権利を認め、これに恋愛法上の法益性を認める余地が十分にあると思われる。
 このような理解によれば、浮気行為は、それが最終的に発覚する場合にはパートナーの感情を侵害する一方、発覚しない(隠し通す)場合には、パートナーの「浮気するような人間とは交際しない」という決定の権利(ないし知る権利)を奪うため、いずれにせよ、法益の侵害に結びつく行為であるとして、その恋愛法違反性を肯定することが可能となろう。
 かくして、「新しい法益」を認めることにより、個別事例における法益侵害との結びつきを要求しつつ、浮気アポリアからの脱却を図ることが可能となる。無論、以上のような理解に対しては、自己決定権として法益性が認められる範囲、とりわけ、パートナーに知る権利が保障される「交際の判断の基礎となるような重要な事項」の範囲をどのように画するか、という難しい問題が投げかけられることになろう。しかし、この困難さは、新しい法益の導入を拒絶する理由にはならない。「法益」論は、その恣意的な拡張を断固として拒絶しつつも、社会の新たな要請に対して開かれていなければならないのである。

*1:刑法学における法益概念の歴史的な展開については、伊東研祐『法益概念史研究』(成文堂、1984年)、内藤謙「刑法における法益概念の歴史的展開」同『刑法理論の史的展開』(有斐閣、2007年)67頁以下等を参照。

*2:「恋人を傷つけてはならない」という一般的になされる言明も、恋人を感情的に傷つける行為の禁止を指示しているものとして理解できる。

*3:刑法学においても、人の感情を保護法益と構成することに対しては慎重な考え方が一般的である。例えば、曽根威彦「現代刑法と法益論の変容」同『刑事違法論の展開』(成文堂、2013年)35頁は、「同一の迷惑行為に対して引き起こされる情緒的反応はきわめて個人差が大き」いことを理由に、人の感情を刑法上の保護法益とすることは困難であるとしている。なお、感情の刑法的保護の問題を取り扱った近時の論文としては、内海朋子「感情の刑法的保護について 序論」横浜法学22巻3号(2014年)205頁以下、高山佳奈子「『感情法益』の問題性─動物実験規制を手がかりに」『山口厚先生献呈論文集』(成文堂、2014年)3頁以下等がある。

*4:なお、「不快原理(offense principle)」を提唱したファインバーグは、惹起された不快の強度(intensity)、持続性(duration)、範囲(extent)を、一般人の感覚を基準に決定すべきであるとし、異常な感受性(abnormal susceptibilities)を有する被害者のみが不快だと感じる場合を考慮に入れないものとしていた。See Joel Feinberg, Offense to Others, 1985, p.35.

*5:このような功利主義は、個々の行為に功利主義を適用する古典的な「行為功利主義(act-utilitarianism)」と対置され、「ルール功利主義(rule-utilitarianism)」と呼ばれている。瀧川裕英=宇佐美誠=大屋雄裕法哲学』(有斐閣、2014年)16頁以下等参照。