第3講「規範の名宛人」

1 はじめに
 恋愛法というルールは、「誰に」対して向けられているのであろうか。すでに、第1講で説明したように、恋愛法は、行為規範としての恋愛法(=狭義の恋愛法)と、制裁規範としての恋愛法(恋愛制裁法)の2つの規範から成り立っている*1。このうち、制裁規範としての恋愛法は、行為規範としての恋愛法に違反した者に対して、どのような制裁をいかなる限度で課すべきかについての規範であり、その名宛人が、制裁を加えようとする制裁主体であることは明白である*2。これに対して、行為規範としての恋愛法を遵守しなければならないのは誰なのか、という点をめぐっては、議論の余地がある。告白を経て恋人となったカップルが、恋愛法の典型的な適用対象となることには異論がないであろうが、例えば、告白を経ていないものの、実質的には恋人同然の関係にある者や、交際関係に時間的に前後する段階の当事者に対しても、恋愛法の規範的拘束を及ぼすべきかどうかは、見解が分かれるであろう。そこで、本講では、行為規範としての恋愛法の名宛人が誰か*3、という問題について検討を加えてみたい。

2 「交際関係」の範囲ー形式主義と実質主義ー
 恋愛法が、「交際関係」にある当事者に対して向けられることには異論がない。問題は、この「交際関係」にあるかどうかをどのような基準で判断するか、ということである。
 この点について、交際関係形成の申込み(=告白)とこれに対する受諾の存在を要件と解するのが、「形式説」と呼ばれる見解である。形式説によれば、いくら恋人同然の関係が形成されているとしても、形式的に「告白」という儀礼を通過していない以上は、恋愛法の規範的拘束を及ぼすことはできず、両者の間で何が起きても、恋愛法的な非難の対象にはならない。形式的に交際関係になくても、好意に由来する感情の侵害は生じうるが、そのような感情侵害だけで、直ちに恋愛法違反として、非難を向けることはできない。むしろ、告白とその受諾というプロセスを経ることで初めて、当事者の感情法益は要保護性を備えると解されるのである。こうした理解は、恋愛法の適用対象の明確化をもたらし、規範適用の予測可能性を高めるという利点も有すると評価できよう。
 これに対して、そのような理解は形式的にすぎるとして、実質的に恋人同然の関係にあれば、恋愛法の遵守を求めるべきとするのが「実質説」である。もちろん、単に恋愛感情が芽生えれば、直ちに恋愛法による介入を認めるべき、と考えることはできない。そのように理解してしまうと、誰かから一方的に好意に向けられた者についても、その感情への配慮を義務付けてしまうことになり、恋愛法の適用対象が広くなりすぎてしまうからである。しかし、必ずしも告白という手続的なプロセスを経由していなくても、それ以外の事情から、互いの恋愛感情に配慮すべき義務があると実質的に評価できる場合には、恋愛法の遵守を求めるべきである、という理解は成り立ちうる。
 このような実質説は、一見すると説得力があるようにも思われる。確かに、恋愛関係の構築においてどのようなプロセスを選択するかは、全くもって当事者の自由である。その意味で、形式説のように、告白という「典型」的なプロセスを経た交際関係のみを保護し、それ以外の関係性の保護を一切遮断してしまうのは、不合理ではないか、という疑問はもっともらしく見える。また、恋愛感情に由来する過酷な精神的苦痛の回避という恋愛法の目的からしても、実質的には恋人同然といえるような関係に対しては、広く規範的拘束を及ぼした方が合理的であるとも言えそうである。
 しかし、このような理解は、告白(とその受諾)というプロセス自体の持つ規範的な意義を軽視しすぎているように思われる。恋愛関係の形成において、「告白」という手続がいわば恋愛における「一大イベント」として社会的にも重視されるのは、それが、単に、恋愛感情の表明にとどまるのではなく、むしろ、「恋人」という社会的関係の形成への合意を通じて、そうした関係と紐づけられた諸規範に対して互いにコミットすることの表明という意義を有しているからであろう。そうだとすれば、恋愛法の適用の可否を検討する上でも、こうした規範的コミットの有無が決定的に重要といえる。実質的な恋人同然の関係にあるとしても、当事者により「告白」というプロセスが意図的に回避されているのであれば、その事実は軽視できず、「恋人」であることを前提に形成された恋愛法規範を、それと同然であるという理由で安易に「類推適用」するのは、妥当でないように思われる。
 以上のことから、基本的には「形式説」が妥当というのが本講の立場であるが、次の点に留意が必要である。まず、形式説からは「告白(とその受諾)」という手続の経由が重視されるが、そのやり方は当事者ごとに多様である。下駄箱に手紙を入れて屋上に呼び出し、「前から好きでした」と伝えるような、いかにもベタなやり方でもよいし、陽気なダンスで愛の告白をするのも自由である。さらに、交際意思の明示的な表現を伴うのではない、「黙示の告白」ということも考えられる。すなわち、明確に「付き合ってほしい」という言葉は発していないが、恋人であるような振舞いを互いにし続けることで、挙動により告白とその受諾が行われたと評価できる場合がありうる。その限界については慎重な検討が必要であるものの、このように考えれば、形式説と実質説の違いは、かなりの程度、相対化されることになろう。
 他方、告白を経由しており形式的に恋人と呼ばれる関係にあるとしても、すでに関係が冷めきっており、当事者に恋愛感情が失われているような場合(いわば「仮面交際」の状態)には、恋愛法の適用を認めることはできない。このような場合、恋愛法の保護法益を、感情侵害に求める立場からは、法益侵害の危険性が認められない以上、恋愛法規範の拘束を及ぼす根拠が欠けるからである。

3 時間的な拡張
 恋愛法の適用対象をめぐっては、さらに、交際関係に至る前後の段階についても、一定の規範的拘束を及ぼすべきかどうかが議論の対象とされる。例えば、〔事例1〕XとYがいまだに交際関係にないものの、親密なデートを重ねており、Yも近い将来にXと交際に至ることを期待している状況で、突如XがYに何の断りもなく、別の者とデートをしたという場合や、〔事例2〕Xがバイト先の同僚であり恋人でもあるYを振った直後に、同じバイト先で働いている別の同僚と、新たに交際を開始することで、未練のあるYの感情を傷つけたという場合に、現にYとの間で交際関係にあるわけではないXに恋愛法を適用し、その行動を非難する余地があるかどうか、ということが問題となる。
 これらの事例においても、Xの行動により、Yに(恋愛感情に由来する)過酷な精神的苦痛が生じうることは事実である。〔事例1〕では、交際を目前としていたYの期待が裏切られることで、感情的なショックを受けることになり、〔事例2〕では、交際終了の「直後」に、同一コミュニティに属する別の者との交際関係を開始されることで、Yとしては、Xに裏切られたような気持ちとなり、感情的な苦痛が生じるということが起こりうるであろう。しかし、上述したように、恋愛法を適用するためには、原則として、「告白」を通じた交際関係の形成(による恋愛規範へのコミット)が必要なのであり、これを欠く場合に、感情侵害という事実のみを根拠に、恋愛法の適用(さらには、それによるXへの非難)を正当化することはできない。さらに、上記のような事例においては、X側の「別の人と恋愛する」自由への配慮も必要となる。すなわち、〔事例1〕や〔事例2〕において、Xの行為を咎めることは、Xが別の人と新しい関係を形成する権利を奪うことと同じである。それゆえ、交際関係にない段階で、単に相手方に事実上生じる期待に反する行動を行なったからといって、安易に非難を向けるべきではないといえる。
 もっとも、交際関係にない段階においても、これと時間的に近接する段階において、自身に好意を持つ人間を不必要に傷つけるような行為に対しては、例外的に恋愛法を適用する余地がないかも、検討に値する。本人の恋愛活動の自由を不当に狭めない限りで、自らの行動に由来する相手方の好意への裏切りを一定の範囲で規範的に統制することは、必ずしも不合理ではない。その限界は、相手方の期待の要保護性や、行為者側の有責性も踏まえながら、事案の類型ごとの検討が必要といえる。
 まず、〔事例1〕のような、交際関係が成立する以前に、交際関係の形成に向けた相手方の期待を破るケースについて、恋愛法の適用の限界を考える上では、契約交渉破棄に関する民法上の責任の判断に際して主張される「誤信惹起型」と、「信頼裏切り型」の区別*4が参考となる。「誤信惹起型」とは、契約を締結する意思がないのに、そのような意思があるとの誤信を惹起したうえで、交渉を破棄する類型である。恋愛関係においても、こうした誤信惹起行為は、恋愛活動において何ら有用性がなく、これを禁止しても、行為者の恋愛活動の自由を不当に制約することは考えられないため、違法性を認めることが可能といえよう。したがって、この限りで、恋愛法の適用範囲は、交際関係の形成以前の段階に時間的に拡張されることになる。
 これに対して、「信頼裏切り型」、すなわち、当初は交際関係を形成する意思があり、それに向けて行動していたが、その後に交際の意思を失い、相手方の交際関係への発展への期待を裏切るという類型については、相手方の期待の保護だけでなく、行為者の恋愛活動の自由との調整という観点から、より慎重な検討を要する。
 この点については、交際関係が未だ形成されていない段階だとしても、ある特定の相手方との関係で、交際関係の形成途上の段階にある場合には、「同時並行」的に、他の人との関係を進めることは許されない、という立場があり得よう。新たに別の者との恋愛を開始する自由を完全に奪うことはできないが、それを望む場合には、途中になっている関係を一旦「精算」して終わらせる必要がある、と解するのである。このような理解によれば、〔事例1〕も、Yとの(発展途上の)関係を清算せず、Yに無断で、Zとの交際に向けた活動を開始していることから、恋愛法を適用し、その行動を非難する余地がある、と考えることができよう。
 しかし、交際関係にない段階であるにもかかわらず、そのような一人の者に対する「専念義務」のようなものを課すのが妥当かどうかについては、疑問の余地もある。誰と交際をするかを検討する際に、複数の者との間で同時並行的な「比較」を行うことは、恋愛における自己実現を果たす上でも有益と考えられる。少なくとも、賃貸物件を決める際に、複数の物件の内覧を同時に申し込み、これらを並行する方で比較検討することを咎める者はいないであろう。もちろん、別の者と交際する意思が固まったのであれば、無用な誤信惹起を回避するためにも、関係形成への期待を早めに解消することが求められるであろうが(これは賃貸物件を決める場合も同様である)、それが果たされる限りであれば、他の「物件」に移行することによる「信頼裏切り」は、甘受されるべき事態であり、恋愛法的に違法と評価することはできないようにも思われる。
 同様に、交際関係の終了後の恋愛法の適用(いわば交際による「余後効」*5を認めるか)についても、当事者の恋愛活動の自由を不当に制限しないかという観点から、慎重に検討する必要がある。交際関係が終了している以上、基本的には、別の者との恋愛関係を形成する自由を最大限に認めるべきであると思われるが、〔事例2〕のように、別れた「直後」の段階で、しかも、同一のコミュニティ内で(元恋人のいわば「目の前」で)新たな恋愛活動を開始する場合に、元恋人を傷つけないよう、一定の配慮を要求すべきでないか、という点は議論の余地があろう。この問題については、別の機会に詳しく論じることにしたい。

4 対第三者への適用
 以上では、恋愛法の、恋愛の「当事者」への適用の可能性を検討してきた。時間的な拡張については見解の対立がありうるものの、「交際関係」にある恋愛当事者は、まさに「当事者」として、交際相手の恋愛感情に配慮する義務を引き受けたことを根拠に、恋愛法規範による拘束を受忍することが義務付けられるといえる。
 このような前提から出発するのであれば、当事者以外の第三者に対しては、恋愛法の適用の可能性を否定的に解するのが一貫する。例えば、〔事例3〕Xは、Yと交際関係にあったが、Zがそれを知りつつ、自身もXに好意を抱いていたため、Xを誘惑し、Xがこれに応じてZと浮気したという場合に、Zによる浮気への誘惑行為は、Yの感情利益を(Xの浮気を介して間接的に)侵害する行為といえるが、ZはYとの間でその感情利益の保護を引き受けているわけではない以上、Yとの関係で、規範的拘束を受忍しなければならないといういわれはなく、それゆえ、恋愛法的には、Zを非難の対象とすることはできない、という理解に至る。
 これに対して、交際当事者以外の第三者であっても、当事者による深刻な感情侵害に対して、決定的な因果的影響を行使することが可能である以上、十全な法益保護のために、第三者に対しても恋愛法の規範的統制を及ぶすことが一定の範囲で認められるべき(=恋愛法の対第三者効力)とする見解もありうる*6
 このような見解による場合、第三者の関与をいかなる範囲で、恋愛法的に違法と評価するかが問題になろう。恋人である本人こそが、第一次的に相手方の感情への配慮の義務(管轄)があるということを踏まえれば、当事者による恋愛法違反に何らかの因果的影響を与えたというだけで、非難の対象とするのは広すぎるとして、対第三者への適用の限定を志向することも考えられる。限定のアプローチとしては、大きく分けて、①因果的影響(寄与)の程度の大きさに着目する客観的アプローチと、②関与の意図の内容に着目する主観的アプローチがありうる。例えば、〔事例3〕では、①のアプローチからは、Zが単に浮気相手になったにとどまらず、その過程で、積極的に誘惑しているという事実に着目して、許容される限界を逸脱しているかどうかが問題となり、②のアプローチからは、Zに、Xの恋愛法違反の事実(Yという恋人の存在)の認識にとどまらず、Yに対する積極的な感情侵害の意図など、強い主観的な悪性が認められるかどうかということが問題とされることになろう。さらに、このような客観的アプローチと主観的アプローチを併用し、総合的な観点から、違法評価を限界づけることも考えられる。
 もっとも、このような見解に対しても、その基準が必ずしも明らかではないという問題に加え、限定的であるとはいえ、恋愛関係の当事者でない者に、「赤の他人」の感情に対して配慮して行動することを義務付ける規範的な根拠がどこにあるのか、という根本的な問題は残されるであろう。仮に、Zが、自身の好意を寄せるXの恋人になったYへの嫉妬心から嫌がらせをしようという強い害意のもと、Xを執拗に誘惑することで、Xの浮気行為の実行に強い原因を与えたとしても、最終的に、恋人であるXが浮気を思いとどまれば、Yの感情侵害は回避できるのである。将来の違法行為の抑止という予防論的な観点からも、恋愛法違反の非難を、恋人でもない第三者も含めた複数の者に分散させるよりも、恋愛の直接の当事者に集中させ、その規範的な「感銘力」を高めた方が、効率的であるという見方もできよう。
 以上のように考えると、恋愛法の対第三者への適用については、徹底した「否定説」が改めて評価されてよいように思われる。少なくとも、〔事例3〕については、Zもまた、Xに対して恋愛感情を抱き、Xによる「二股」に巻き込まれた被害者という側面も有しているのであり、感情侵害への寄与に着目した素朴な因果主義により、Zにまで恋愛法的非難を安易に拡散させることの問題性は自覚されるべきであろう。これに対して、第三者が浮気相手ではなく、例えば、面白半分で浮気を唆した第三者のような場合には、「被害者」的側面は認められないが、それでも、交際相手の感情保護の管轄が、他ならぬ交際当事者に専属的なものであるという点を重視するのであれば、やはり第三者に対する恋愛法の適用は否定するのが一貫すると思われる。

*1:第1講「恋愛法とは何か」 - 恋愛法講義

*2:もっとも、そのような制裁主体となりうる者が誰なのか(恋愛の当事者以外に、友人やそれ以外の全くの第三者まで含まれるのか)は検討を要する問題である。この点については、後日、恋愛制裁法について講義する際に、詳しく論じることにしたい。

*3:本講では、恋愛法を遵守すべき者は誰かというテーマを、「名宛人」の問題として論じている。もっとも、考え方によっては、恋愛法を含む社会規範の総体は、この社会を構成する文化共同体のメンバー全員に向けられており、ただ恋愛法は、特定の主体(例えば、誰かと交際関係にある者)であることを適用の条件としているに過ぎない、という理解もあり得よう。ただ、本講の関心からは外れるため、ここでは深入りしない。

*4:池田清治『契約交渉の破棄とその責任』(有斐閣、1997年)329頁以下。

*5:民法学における契約の余後効については、大村敦志『基本民法3 債権総論・担保物権〔第4版〕』(有斐閣、2005年)116頁参照。

*6:なお、配偶者の一方と不貞行為をした第三者(不倫相手)が、他方配偶者に対して損害賠償責任を負担するのかという民法上の問題についても、判例は基本的に民法709条に基づく損害賠償責任の成立を肯定する(最判昭和54年3月30日民集33巻2号303頁)。