恋愛法における不作為犯に関する一考察
恋愛法は、恋愛における当事者の行動に関する最低限のルールを規範の形で提示するものである。そのような規範として、従来典型的に想定されてきたものは「浮気をしてはならない」、「相手を不当に傷つける発言をしてはならない」等の禁止規範であった。しかし、恋愛において最低限遵守されなければならない規範には、禁止規範(「〜すべからず」)のみならず、命令規範(「〜すべし」)も含まれるものと考えるべきであろう。このような命令規範にとっては、当該規範によって命令され、なすことが期待される作為を怠ったという「不作為」が、規範違反行為として措定されることになる。以上のことから、恋愛法違反は、不作為によっても犯され得るという結論を導くことができるのである。
議論の焦点は、このような「恋愛不作為犯」について、作為犯とは異なる固有の規範的考慮が妥当するかどうかというところにある。この点について、有力な見解は、「恋愛自由主義」の観点から、自由の制約が強度である命令規範の形成については慎重な態度で臨む必要があるとしている。つまり、禁止規範であれば、当該規範によって禁止の対象とされた作為を回避することのみによって規範的要請が充足され、その他の行動の自由は制限されないのに対して、命令規範は、特定の作為を要求することから、行動の自由の制限が強力であると認められる。したがって、命令規範を設定できるのは、当該規範が恋愛秩序の維持にとって是非とも必要である場合に限られるのであり、その意味で、禁止規範が原則であるのに対し、命令規範は例外的な存在である、というのである。
しかし、命令規範の方が、禁止規範よりも「強度の制約」であると常にいえるのかについては疑問が残る。例えば、禁止規範であっても、仮に「別れてはならない」という規範を設定すれば、彼(彼女)は、永遠に現在のパートナーと生涯を共にしなければならないのである。このような場合を考えると、禁止規範による行動の自由の制約が一般的に緩やかであるとは言えないことがわかるであろう。禁止規範と命令規範の区別は相対的なものであるし、したがって、恋愛作為犯と恋愛不作為犯との間で、規範の設定レベルにおける差異性を見出すことはできないのである。より重要なのは、命令規範か禁止規範であるかにかかわらず、それらの規範が妥当する根拠である。換言すれば、禁止規範の場合には、「禁止されるところの作為をしてはならない義務」の、命令規範の場合には「命令されるところの作為をしなければならない義務」の発生根拠を考える必要があるのである。
これらの義務の発生根拠として従来考えられてきたのが、恋愛相手方の感情の保護である。私自身、恋愛法の存在意義を「恋愛における不必要な悲しみの回避」に求めている。単なる感情の保護を根拠に、恋愛における行動の自由を規範的に拘束することの当否は慎重に検討されなければならないが、恋愛における悲しみが、他の悲しみと比較して深刻なものであり、それが生活への支障や、場合によっては生命に対するリスク(悲しみによる自殺)を包蔵していることを考えれば、上記の義務を根拠づけることが可能であろう。また、近時では、「制度としての恋愛」を保護すべきとの観点を含めて、これらの義務を基礎づける見解が有力化している。人が人を愛することは、およそ本能による帰結であるが、「交際関係」や「彼氏・彼女」というシステムは人為的なものである。つまり、これらの制度は一定の社会的背景のもとで、人間が、その社会生活にとって有益な存在として人為的に構築してきたものなのである。そして、そのシステムは「浮気をしてはならない」等の義務を含んだものであり、その義務違反は、この人類にとって有益なシステム自体を破壊する危険を内在するものと評価されることになるのである。以上の見地から、恋愛法違反行為は、「恋人の心」に対する攻撃であると同時に、「恋愛という制度」に対する攻撃として把握され、それは規範的に制圧されるべき対象とされることになる。
もっとも、恋愛法は、先に触れたとおり、行動の自由の制約を伴うものであるから、そのような制約を個人が受忍しなければならないことの理由がさらに考察されなければならない。禁止規範と命令規範の区別が相対的であるとしても、取り分け命令規範は「一定の作為」を要求するものであり、行為者に精神的・肉体的労力という負担を課すものである。そのような負担をなぜ負わされるのかについて、納得のいく説明がなされない限り、恋愛規範を遵守しなければならない義務を正当化することはできないだろう。この問題を考える素材として、以下のような事例を考えてみることにしたい。
〔事例〕健太は、茜の外見が可愛かったことから一目惚れをして、知り合ってすぐにLINEを交換するに至った。その後、健太が茜に「可愛いね」「今度飲もう」等のLINEを送ったが、茜はこれを既読スルーした。このことにより、健太は心に深い傷を負った。
〔事例〕においては、近時、恋愛法学でも議論されるに至っている「既読スルー」が問題となっている。LINEというアプリケーションでは、相手方が受信したメッセージを読むと、既読したことが送信者に伝達される仕組みが採用されている。そのため、既読があったにもかかわらず、返信が来ないと「既読スルー」されたことになり、送信者は悲しまざるを得ないのである。そこで、恋愛関係にある当事者の間では、「既読をしたら返信をする」という作為義務が肯定されるかどうかが争われている。仮に、恋愛関係にある当事者にこのような作為義務が肯定されるとして、〔事例〕の茜にもこれを肯定することができるだろうか。〔事例〕では、茜は一方的に健太から一目惚れをされているのであり、茜自身がこれに対して積極的に関与をしているわけではない。このような茜に、「既読をしたら返信をする」という義務を負わせ、その行動の自由を制約することはできないと考えるべきではないだろうか。学説の中には、恋愛規範遵守義務の発生に「帰責性」や「先行行為」が必要であるとする説明があるが、これら学説も共通の理解に立っているものと思われる。確かに、茜が可愛かったからこそ、健太は一目惚れをしたわけであるが、「可愛く生まれたこと」をもって、規範的拘束を受忍しなければならない義務を負わせることはできないであろう。以上のことからすれば、例え茜による「既読スルー」が、健太の心を傷つけるとしても、これを恋愛法違反と考えることはできないのである。
今回の議論を整理すると、恋愛法による規範的拘束は、「恋愛という制度の有益性維持(その有益性は、恋愛における「快」感情の最大化に向けられている)」と、「行動自由の制約の個人レヴェルでの正当化」という異なる次元での正当性を要すると考えることができる。そして、恋愛不作為犯を考察する場合には、一定の作為の要求と、それに伴う精神的・肉体的労苦の支出が、何故正当化されるのかを、以上のそれぞれの次元において検討しなければならないのである。もちろん、恋愛作為犯の場合についても、行為の存在構造は異なるが、やはりそれぞれの次元における正当性が検討されなければならない(例えば、「浮気の禁止」がなぜ恋愛という制度にとって有益であるか、また、他人とデートや性行為をする自由が奪われることがなぜ正当化されるのか、といった具合である。)。
なお、後者の次元の正当化問題が先鋭化するのが、「浮気の教唆・幇助」である。例えば、太郎が、花子の恋人である次郎に対して、浮気の教唆をし、次郎が実際に浮気をした場合に、次郎に花子に対する恋愛法違反が成立することは異論なく認められる。次郎は、花子との恋愛関係に自ら入ったのであるから、花子を不当に傷つけないよう行動することが要求されるのが当然であると説明できるためである。一方で、太郎は、花子との間の恋愛関係に入ったわけではない。いわば「通りすがりの友人」であって、花子が傷つかないように努力すべきであるという地位にはないようにも思われるのである。この問題については、いずれしっかり議論する予定である。