第3講「規範の名宛人」

1 はじめに
 恋愛法というルールは、「誰に」対して向けられているのであろうか。すでに、第1講で説明したように、恋愛法は、行為規範としての恋愛法(=狭義の恋愛法)と、制裁規範としての恋愛法(恋愛制裁法)の2つの規範から成り立っている*1。このうち、制裁規範としての恋愛法は、行為規範としての恋愛法に違反した者に対して、どのような制裁をいかなる限度で課すべきかについての規範であり、その名宛人が、制裁を加えようとする制裁主体であることは明白である*2。これに対して、行為規範としての恋愛法を遵守しなければならないのは誰なのか、という点をめぐっては、議論の余地がある。告白を経て恋人となったカップルが、恋愛法の典型的な適用対象となることには異論がないであろうが、例えば、告白を経ていないものの、実質的には恋人同然の関係にある者や、交際関係に時間的に前後する段階の当事者に対しても、恋愛法の規範的拘束を及ぼすべきかどうかは、見解が分かれるであろう。そこで、本講では、行為規範としての恋愛法の名宛人が誰か*3、という問題について検討を加えてみたい。

2 「交際関係」の範囲ー形式主義と実質主義ー
 恋愛法が、「交際関係」にある当事者に対して向けられることには異論がない。問題は、この「交際関係」にあるかどうかをどのような基準で判断するか、ということである。
 この点について、交際関係形成の申込み(=告白)とこれに対する受諾の存在を要件と解するのが、「形式説」と呼ばれる見解である。形式説によれば、いくら恋人同然の関係が形成されているとしても、形式的に「告白」という儀礼を通過していない以上は、恋愛法の規範的拘束を及ぼすことはできず、両者の間で何が起きても、恋愛法的な非難の対象にはならない。形式的に交際関係になくても、好意に由来する感情の侵害は生じうるが、そのような感情侵害だけで、直ちに恋愛法違反として、非難を向けることはできない。むしろ、告白とその受諾というプロセスを経ることで初めて、当事者の感情法益は要保護性を備えると解されるのである。こうした理解は、恋愛法の適用対象の明確化をもたらし、規範適用の予測可能性を高めるという利点も有すると評価できよう。
 これに対して、そのような理解は形式的にすぎるとして、実質的に恋人同然の関係にあれば、恋愛法の遵守を求めるべきとするのが「実質説」である。もちろん、単に恋愛感情が芽生えれば、直ちに恋愛法による介入を認めるべき、と考えることはできない。そのように理解してしまうと、誰かから一方的に好意に向けられた者についても、その感情への配慮を義務付けてしまうことになり、恋愛法の適用対象が広くなりすぎてしまうからである。しかし、必ずしも告白という手続的なプロセスを経由していなくても、それ以外の事情から、互いの恋愛感情に配慮すべき義務があると実質的に評価できる場合には、恋愛法の遵守を求めるべきである、という理解は成り立ちうる。
 このような実質説は、一見すると説得力があるようにも思われる。確かに、恋愛関係の構築においてどのようなプロセスを選択するかは、全くもって当事者の自由である。その意味で、形式説のように、告白という「典型」的なプロセスを経た交際関係のみを保護し、それ以外の関係性の保護を一切遮断してしまうのは、不合理ではないか、という疑問はもっともらしく見える。また、恋愛感情に由来する過酷な精神的苦痛の回避という恋愛法の目的からしても、実質的には恋人同然といえるような関係に対しては、広く規範的拘束を及ぼした方が合理的であるとも言えそうである。
 しかし、このような理解は、告白(とその受諾)というプロセス自体の持つ規範的な意義を軽視しすぎているように思われる。恋愛関係の形成において、「告白」という手続がいわば恋愛における「一大イベント」として社会的にも重視されるのは、それが、単に、恋愛感情の表明にとどまるのではなく、むしろ、「恋人」という社会的関係の形成への合意を通じて、そうした関係と紐づけられた諸規範に対して互いにコミットすることの表明という意義を有しているからであろう。そうだとすれば、恋愛法の適用の可否を検討する上でも、こうした規範的コミットの有無が決定的に重要といえる。実質的な恋人同然の関係にあるとしても、当事者により「告白」というプロセスが意図的に回避されているのであれば、その事実は軽視できず、「恋人」であることを前提に形成された恋愛法規範を、それと同然であるという理由で安易に「類推適用」するのは、妥当でないように思われる。
 以上のことから、基本的には「形式説」が妥当というのが本講の立場であるが、次の点に留意が必要である。まず、形式説からは「告白(とその受諾)」という手続の経由が重視されるが、そのやり方は当事者ごとに多様である。下駄箱に手紙を入れて屋上に呼び出し、「前から好きでした」と伝えるような、いかにもベタなやり方でもよいし、陽気なダンスで愛の告白をするのも自由である。さらに、交際意思の明示的な表現を伴うのではない、「黙示の告白」ということも考えられる。すなわち、明確に「付き合ってほしい」という言葉は発していないが、恋人であるような振舞いを互いにし続けることで、挙動により告白とその受諾が行われたと評価できる場合がありうる。その限界については慎重な検討が必要であるものの、このように考えれば、形式説と実質説の違いは、かなりの程度、相対化されることになろう。
 他方、告白を経由しており形式的に恋人と呼ばれる関係にあるとしても、すでに関係が冷めきっており、当事者に恋愛感情が失われているような場合(いわば「仮面交際」の状態)には、恋愛法の適用を認めることはできない。このような場合、恋愛法の保護法益を、感情侵害に求める立場からは、法益侵害の危険性が認められない以上、恋愛法規範の拘束を及ぼす根拠が欠けるからである。

3 時間的な拡張
 恋愛法の適用対象をめぐっては、さらに、交際関係に至る前後の段階についても、一定の規範的拘束を及ぼすべきかどうかが議論の対象とされる。例えば、〔事例1〕XとYがいまだに交際関係にないものの、親密なデートを重ねており、Yも近い将来にXと交際に至ることを期待している状況で、突如XがYに何の断りもなく、別の者とデートをしたという場合や、〔事例2〕Xがバイト先の同僚であり恋人でもあるYを振った直後に、同じバイト先で働いている別の同僚と、新たに交際を開始することで、未練のあるYの感情を傷つけたという場合に、現にYとの間で交際関係にあるわけではないXに恋愛法を適用し、その行動を非難する余地があるかどうか、ということが問題となる。
 これらの事例においても、Xの行動により、Yに(恋愛感情に由来する)過酷な精神的苦痛が生じうることは事実である。〔事例1〕では、交際を目前としていたYの期待が裏切られることで、感情的なショックを受けることになり、〔事例2〕では、交際終了の「直後」に、同一コミュニティに属する別の者との交際関係を開始されることで、Yとしては、Xに裏切られたような気持ちとなり、感情的な苦痛が生じるということが起こりうるであろう。しかし、上述したように、恋愛法を適用するためには、原則として、「告白」を通じた交際関係の形成(による恋愛規範へのコミット)が必要なのであり、これを欠く場合に、感情侵害という事実のみを根拠に、恋愛法の適用(さらには、それによるXへの非難)を正当化することはできない。さらに、上記のような事例においては、X側の「別の人と恋愛する」自由への配慮も必要となる。すなわち、〔事例1〕や〔事例2〕において、Xの行為を咎めることは、Xが別の人と新しい関係を形成する権利を奪うことと同じである。それゆえ、交際関係にない段階で、単に相手方に事実上生じる期待に反する行動を行なったからといって、安易に非難を向けるべきではないといえる。
 もっとも、交際関係にない段階においても、これと時間的に近接する段階において、自身に好意を持つ人間を不必要に傷つけるような行為に対しては、例外的に恋愛法を適用する余地がないかも、検討に値する。本人の恋愛活動の自由を不当に狭めない限りで、自らの行動に由来する相手方の好意への裏切りを一定の範囲で規範的に統制することは、必ずしも不合理ではない。その限界は、相手方の期待の要保護性や、行為者側の有責性も踏まえながら、事案の類型ごとの検討が必要といえる。
 まず、〔事例1〕のような、交際関係が成立する以前に、交際関係の形成に向けた相手方の期待を破るケースについて、恋愛法の適用の限界を考える上では、契約交渉破棄に関する民法上の責任の判断に際して主張される「誤信惹起型」と、「信頼裏切り型」の区別*4が参考となる。「誤信惹起型」とは、契約を締結する意思がないのに、そのような意思があるとの誤信を惹起したうえで、交渉を破棄する類型である。恋愛関係においても、こうした誤信惹起行為は、恋愛活動において何ら有用性がなく、これを禁止しても、行為者の恋愛活動の自由を不当に制約することは考えられないため、違法性を認めることが可能といえよう。したがって、この限りで、恋愛法の適用範囲は、交際関係の形成以前の段階に時間的に拡張されることになる。
 これに対して、「信頼裏切り型」、すなわち、当初は交際関係を形成する意思があり、それに向けて行動していたが、その後に交際の意思を失い、相手方の交際関係への発展への期待を裏切るという類型については、相手方の期待の保護だけでなく、行為者の恋愛活動の自由との調整という観点から、より慎重な検討を要する。
 この点については、交際関係が未だ形成されていない段階だとしても、ある特定の相手方との関係で、交際関係の形成途上の段階にある場合には、「同時並行」的に、他の人との関係を進めることは許されない、という立場があり得よう。新たに別の者との恋愛を開始する自由を完全に奪うことはできないが、それを望む場合には、途中になっている関係を一旦「精算」して終わらせる必要がある、と解するのである。このような理解によれば、〔事例1〕も、Yとの(発展途上の)関係を清算せず、Yに無断で、Zとの交際に向けた活動を開始していることから、恋愛法を適用し、その行動を非難する余地がある、と考えることができよう。
 しかし、交際関係にない段階であるにもかかわらず、そのような一人の者に対する「専念義務」のようなものを課すのが妥当かどうかについては、疑問の余地もある。誰と交際をするかを検討する際に、複数の者との間で同時並行的な「比較」を行うことは、恋愛における自己実現を果たす上でも有益と考えられる。少なくとも、賃貸物件を決める際に、複数の物件の内覧を同時に申し込み、これらを並行する方で比較検討することを咎める者はいないであろう。もちろん、別の者と交際する意思が固まったのであれば、無用な誤信惹起を回避するためにも、関係形成への期待を早めに解消することが求められるであろうが(これは賃貸物件を決める場合も同様である)、それが果たされる限りであれば、他の「物件」に移行することによる「信頼裏切り」は、甘受されるべき事態であり、恋愛法的に違法と評価することはできないようにも思われる。
 同様に、交際関係の終了後の恋愛法の適用(いわば交際による「余後効」*5を認めるか)についても、当事者の恋愛活動の自由を不当に制限しないかという観点から、慎重に検討する必要がある。交際関係が終了している以上、基本的には、別の者との恋愛関係を形成する自由を最大限に認めるべきであると思われるが、〔事例2〕のように、別れた「直後」の段階で、しかも、同一のコミュニティ内で(元恋人のいわば「目の前」で)新たな恋愛活動を開始する場合に、元恋人を傷つけないよう、一定の配慮を要求すべきでないか、という点は議論の余地があろう。この問題については、別の機会に詳しく論じることにしたい。

4 対第三者への適用
 以上では、恋愛法の、恋愛の「当事者」への適用の可能性を検討してきた。時間的な拡張については見解の対立がありうるものの、「交際関係」にある恋愛当事者は、まさに「当事者」として、交際相手の恋愛感情に配慮する義務を引き受けたことを根拠に、恋愛法規範による拘束を受忍することが義務付けられるといえる。
 このような前提から出発するのであれば、当事者以外の第三者に対しては、恋愛法の適用の可能性を否定的に解するのが一貫する。例えば、〔事例3〕Xは、Yと交際関係にあったが、Zがそれを知りつつ、自身もXに好意を抱いていたため、Xを誘惑し、Xがこれに応じてZと浮気したという場合に、Zによる浮気への誘惑行為は、Yの感情利益を(Xの浮気を介して間接的に)侵害する行為といえるが、ZはYとの間でその感情利益の保護を引き受けているわけではない以上、Yとの関係で、規範的拘束を受忍しなければならないといういわれはなく、それゆえ、恋愛法的には、Zを非難の対象とすることはできない、という理解に至る。
 これに対して、交際当事者以外の第三者であっても、当事者による深刻な感情侵害に対して、決定的な因果的影響を行使することが可能である以上、十全な法益保護のために、第三者に対しても恋愛法の規範的統制を及ぶすことが一定の範囲で認められるべき(=恋愛法の対第三者効力)とする見解もありうる*6
 このような見解による場合、第三者の関与をいかなる範囲で、恋愛法的に違法と評価するかが問題になろう。恋人である本人こそが、第一次的に相手方の感情への配慮の義務(管轄)があるということを踏まえれば、当事者による恋愛法違反に何らかの因果的影響を与えたというだけで、非難の対象とするのは広すぎるとして、対第三者への適用の限定を志向することも考えられる。限定のアプローチとしては、大きく分けて、①因果的影響(寄与)の程度の大きさに着目する客観的アプローチと、②関与の意図の内容に着目する主観的アプローチがありうる。例えば、〔事例3〕では、①のアプローチからは、Zが単に浮気相手になったにとどまらず、その過程で、積極的に誘惑しているという事実に着目して、許容される限界を逸脱しているかどうかが問題となり、②のアプローチからは、Zに、Xの恋愛法違反の事実(Yという恋人の存在)の認識にとどまらず、Yに対する積極的な感情侵害の意図など、強い主観的な悪性が認められるかどうかということが問題とされることになろう。さらに、このような客観的アプローチと主観的アプローチを併用し、総合的な観点から、違法評価を限界づけることも考えられる。
 もっとも、このような見解に対しても、その基準が必ずしも明らかではないという問題に加え、限定的であるとはいえ、恋愛関係の当事者でない者に、「赤の他人」の感情に対して配慮して行動することを義務付ける規範的な根拠がどこにあるのか、という根本的な問題は残されるであろう。仮に、Zが、自身の好意を寄せるXの恋人になったYへの嫉妬心から嫌がらせをしようという強い害意のもと、Xを執拗に誘惑することで、Xの浮気行為の実行に強い原因を与えたとしても、最終的に、恋人であるXが浮気を思いとどまれば、Yの感情侵害は回避できるのである。将来の違法行為の抑止という予防論的な観点からも、恋愛法違反の非難を、恋人でもない第三者も含めた複数の者に分散させるよりも、恋愛の直接の当事者に集中させ、その規範的な「感銘力」を高めた方が、効率的であるという見方もできよう。
 以上のように考えると、恋愛法の対第三者への適用については、徹底した「否定説」が改めて評価されてよいように思われる。少なくとも、〔事例3〕については、Zもまた、Xに対して恋愛感情を抱き、Xによる「二股」に巻き込まれた被害者という側面も有しているのであり、感情侵害への寄与に着目した素朴な因果主義により、Zにまで恋愛法的非難を安易に拡散させることの問題性は自覚されるべきであろう。これに対して、第三者が浮気相手ではなく、例えば、面白半分で浮気を唆した第三者のような場合には、「被害者」的側面は認められないが、それでも、交際相手の感情保護の管轄が、他ならぬ交際当事者に専属的なものであるという点を重視するのであれば、やはり第三者に対する恋愛法の適用は否定するのが一貫すると思われる。

*1:第1講「恋愛法とは何か」 - 恋愛法講義

*2:もっとも、そのような制裁主体となりうる者が誰なのか(恋愛の当事者以外に、友人やそれ以外の全くの第三者まで含まれるのか)は検討を要する問題である。この点については、後日、恋愛制裁法について講義する際に、詳しく論じることにしたい。

*3:本講では、恋愛法を遵守すべき者は誰かというテーマを、「名宛人」の問題として論じている。もっとも、考え方によっては、恋愛法を含む社会規範の総体は、この社会を構成する文化共同体のメンバー全員に向けられており、ただ恋愛法は、特定の主体(例えば、誰かと交際関係にある者)であることを適用の条件としているに過ぎない、という理解もあり得よう。ただ、本講の関心からは外れるため、ここでは深入りしない。

*4:池田清治『契約交渉の破棄とその責任』(有斐閣、1997年)329頁以下。

*5:民法学における契約の余後効については、大村敦志『基本民法3 債権総論・担保物権〔第4版〕』(有斐閣、2005年)116頁参照。

*6:なお、配偶者の一方と不貞行為をした第三者(不倫相手)が、他方配偶者に対して損害賠償責任を負担するのかという民法上の問題についても、判例は基本的に民法709条に基づく損害賠償責任の成立を肯定する(最判昭和54年3月30日民集33巻2号303頁)。

第2講「恋愛法における保護法益」

1 恋愛法と法益概念
 恋愛法における行動規範には、恋愛の当事者に対して、一定の行為を禁止する行動規範と、一定の行為を命令する命令規範が含まれる。いずれの規範も、恋愛の当事者の行動の自由を一定の範囲で制約しようとするものである以上、そのような制約を正当化するための根拠が必要である。具体的には、少なくとも、こうした規範による行動の制約が、パートナーの重要な「利益」の保護にとり役立つものでなければならない。誰の得にもならないルールを設定することは、まさに「誰得」であり、規範の正当性を欠くことになる。
 この、恋愛「法」で保護が目指される重要な利「益」のことを、「法益」と呼ぶことができる*1。「法益」概念は、恋愛法で禁止・命令される行為の内容を合理的に限界づけることに資する。すなわち、恋愛当事者の行為は、恋愛法における保護法益の侵害に結びつく限りで、規範的な統制の対象とされるのに対して、そのような結びつきを持たない行為は、恋愛法による統制の範囲から除かれることで、その自由が保障されるのである。

2 保護法益の内容
 もっとも、恋愛法における保護法益が何であるか、という点については、議論の余地がある。一つの考え方としては、恋人(パートナー)の「感情」を法益として措定すべきという理解があろう(感情保護説)*2。恋愛において傷つけられることにより生じる感情的なショックは、日常生活で一般に生じうる感情的な不利益と比較しても、とりわけ顕著なものであり、時にその者の生活に対して深刻な支障を与えることも少なくない。そのような侵害の深さに鑑みれば、「感情」利益に着目した上で、これを恋愛法における行動統制の基準に据えることには、合理的な根拠があると言えよう。
 これに対して、「感情」という主観的な利益は、その抱き方が人により様々であり、行動統制の指針とすることが困難であることから*3、むしろ、恋愛当事者間に客観的に存在している「交際関係(の維持や存続)」こそが保護法益の内容として相応しい、という理解もありうる(関係保護説)。交際関係が続くことは、それ自体が、人々が安定した社会生活を送るうえで有益なものであり、これを破壊する行為が、恋愛法における禁止の対象であると考えるのである。この理解によれば、恋人の感情は、交際関係の維持や存続が保護される結果として、反射的に保護されるにすぎない利益ということになろう。
 しかし、当事者の「感情」とは切り離して、交際関係それ自体を恋愛法の独立の法益とすることには、看過できない問題があるように思われる。関係保護説によれば、当事者の感情とは無関係に、一定期間の交際が継続した場合には、そのような関係に法益性が付与され、これを一方的に破棄することが許されないことになろう。しかし、例えば、当事者の恋愛感情が冷え切っており、ただ形式的なパートナー関係だけが継続しているという場合(いわば、「仮面カップル」の状態)に、そのような関係を、恋愛法規範を通じて保護することに合理的な理由があるとは思われない。他方で、関係保護説を徹底すると、交際関係さえ破られなければ、その中でいかにパートナーを精神的に傷つける行為が行われても、それは行動統制の範囲外ということになるが、このような帰結も妥当とは言い難いであろう。
 そもそも、関係保護説の背後にある、関係を終わらせる(=別れる)行為が、恋愛法違反の典型であるかのような想定自体にも疑問がある。関係保護説は、恋愛関係を、いわば既得権益的に捉え、その固定化を志向しようとするものといえるが、その背後にあるのは、スタティックで退屈な恋愛観である。むしろ、恋愛関係は、その進展や時間的経過により変容することが当然に予定されるものであり、その「終焉」にも可能性が開かれていなければならない。このようなダイナミックな恋愛観からすれば、「終わりは、新たな始まり」であり、別れる自由は、むしろ恋愛法においても最大限尊重されなければならないのである。
 このような難点を克服するためのアプローチとして、関係保護説からは、その内容を修正し、あくまでも「保護に値する」関係の継続のみが法益になりうる、とする理解もありうる。すなわち、単に、事実上交際関係が続いている場合に、その全てが保護の対象となるのではなく、規範的な見地から、その継続が保護に値すると考えられる場合のみ、法益性を獲得するという理解である(修正された関係保護説)。この理解からは、例えば、当事者の一方(ないし双方)が恋愛感情を喪失しており、別れを望んでいるような場合には、両者の交際関係の規範的次元における要保護性が否定され、その解消を合法的に認めることができるとして、「別れる自由」を擁護する説明が可能となろう。
 しかし、このような修正された見解によれば、交際関係に法益性が認められるかどうかは、「規範的に保護価値があるか」という、判断者の裸の価値判断に完全に委ねられてしまい、それこそ、法益概念が果たすべき、行動統制の範囲を画するための指針としての機能は完全に損なわれてしまう。また、そもそも、関係保護説の説明によれば、関係の継続それ自体に保護価値があるという発想が前提とされているのであるから、その要保護性が、当事者の恋愛「感情」の有無によって左右されることの根拠は内在していないはずである。結局、このような修正説は、論者が妥当と考える行動統制の範囲を後付けで正当化するために法益概念を用いるものに過ぎず、支持できない。
 以上の検討によれば、基本的には、感情保護説の優位性が認められるべきであろう。確かに、関係保護説が懸念するように、感情の抱き方は人により様々であるが、通常人を基準として、その感情侵害に結びつく危険性がある行為を特定することは、それほど困難なことではなく、経験的に把握することも十分に可能といえる*4
 もっとも、パートナーの感情を侵害する危険性のある行為が、全て恋愛法における禁止の対象になるわけではない。当該行為が、別の(対抗)利益の実現に向けられており、感情侵害という反価値を上回るだけの有価値が認められるのであれば、当該行為への禁止は解除され、許容される場合がある。「別れる行為」についても、多くの場合は、パートナーの感情を傷つけることがあろうが、「別れる自由」にそれを上回る価値を認めることにより、その正当化を肯定することが可能となるのである。
 この点で、感情保護説も、法益概念のみで、行動統制(禁止)の範囲を完全に限界づけられるわけではないことには注意が必要であろう。もっとも、このような場面でも、衡量の対象となる具体的利益の内容が可視化されることにより、価値判断の過程が見えやすくなる点は重要である。他方で、修正された関係保護説のように、法益概念そのものに「保護に値するか」という規範的な要素を読み込むことで、問題の解決を裸の価値判断に委ねるようなやり方は、この点でも支持することができないのである。

【不快原理】
 精神的不快を根拠とした自由の規制を正当化できるかは政治哲学上の難問である。そのような規制を正当化する原理として「不快原理」を提唱したファインバーグは、不快行為の犯罪化について、「不快の深刻度」と「行為の合理性(reasonableness)」を比較検討して決定すべきであるとしていた。すなわち、不快の深刻さ(大きさ、回避困難性、被害者の同意不存在)が、行為の合理性(行為の社会的価値、代替手段の可能性、動機)を上回る場合には、国家の干渉が正当化されるのである(Joel Feinberg, Offense to Others, 1985, pp.34-44.)。恋愛法学は、国家的な規制の正当性を問題とするものではないが、感情保護説の立場から、精神的不利益を理由とする行動統制の正当化範囲に関心を寄せるかぎりで、ファインバーグによって提唱された上記の基準は、参考になるものであると思われる。

3 感情侵害説の危機?
(1)浮気のアポリア
 感情侵害説は、「恋人の感情」を侵害する危険性のない行為を、規範的統制の対象から除外することで、自由制約の範囲を合理的に限界づけることに資する考え方といえるが、こうした理解を採ることで、説明が困難になるのが、次の浮気の違法性をめぐる問題である。
 感情保護説によれば、浮気行為が、恋愛法的に許されないことの根拠は、それが将来発覚した場合に、恋人の感情を深く傷つけてしまう点に求められるであろう。このような理解を一貫させるのであれば、浮気の事実が発覚するおそれが全く存在しないのであれば、交際相手の感情を侵害する危険もないため、理論上は、恋愛法には違反しないことになる。しかし、「バレない浮気ならやってもいい」というのは、我々の直感には明らかに反するであろう。この「浮気のアポリア」をどのように解決するかが、感情保護説の課題となる。
 もちろん、現実問題として、発覚する可能性が皆無の浮気など存在しない、という見方はありうるだろう。仮に、客観的な証拠が何一つなくても(そのような場合がそもそも想定困難だが)、本人が罪悪感から「自白」することで発覚してしまうという可能性まで考えれば、発覚の抽象的な可能性は常にあるとも言える。しかし、現実問題としてはそのように言えても、このような説明によるだけでは、少なくとも「バレない浮気ならやってもいい」という命題そのものは真であるとして認めることになってしまう。これでは、「浮気のアポリア」を真に解決したことにはならない。

(2)義務侵害モデルによる説明
 この「浮気のアポリア」を解消するための説明の一つとして、次のようなものが考えられる。すなわち、「浮気をしてはならない」という行動規範そのものは、浮気行為が恋人の「感情」を侵害する危険性があるために設定されたものであるが、ひとたびこのような規範が社会において承認された以上は、個別事例において、感情侵害の危険があるかどうかとは無関係に、その行動義務が遵守されなければならず、「バレない浮気」もこの義務を侵害する以上、恋愛法に違反するものと評価される、という説明である。このような説明は、個々の事例で法益侵害を要求せず、一度課された「義務」それ自体の侵害のみを問題にするものであることから、「義務侵害モデル」と呼ぶことができよう。
 この義務侵害モデルの説明に対しては、個別事例における感情侵害(の危険性)を不要とすることの根拠が問われなければならない。恋愛法による行動統制が、利益の保護に向けられることで正当化されるという功利主義的な発想からすれば、個別事例においても、感情侵害の危険を要求するのが本来の筋である。パートナーの利益の保護に役に立たない場合にも、その規範がひとたび設定されたという理由だけで、義務的拘束を強いるのだとすれば、それはやはり「誰得」と言わざるを得ないのではないか、という疑問があり得よう。
 もっとも、この義務侵害モデルは、功利主義の観点からも正当化する余地が全くないわけではない。個別事例で感情侵害(の危険性)を要求する立場によれば、浮気をしようとする行為者が、当該事例において、浮気が発覚する可能性はないと思い込んでさえいれば、恋愛法による規範の声が行為者に届くことはなく、その効力は無力化されてしまうであろう。要するに、行為者が「バレないから、やってもいいや」と思い込めば、それまで、ということである。しかし、実際には、人間の認識能力は完全なものではない。特に、行動経済学が明らかにしているように、我々人間には、自己の置かれた状況を楽観的に評価しようとする、心の癖がある(楽観性バイアス)。こうした認知の歪みにより、「浮気が発覚する可能性」について楽観的な評価がなされてしまった場合にも、規範が無力化するというのであれば、恋人の感情の保護という恋愛法の目的を十分に果たすことも困難であろう。
 これに対して、義務侵害モデルによれば、個別のケースの状況とは無関係に、「浮気をしてはならない」という規範それ自体に妥当性が認められ、行為者が発覚の可能性をどう評価しようとも、その効力が失われることはない。このように、具体的な利益状況とは無関係に、規範それ自体の尊重を行為者に求めることにより、結果的に、より確実に潜在的被害者の感情利益が侵害されることを防止することに役立ち、功利主義的にも最善の帰結を実現することが可能となるのである*5
 このことは、母親が子供に「赤信号を守りなさい」としつける場合になぞらえることができる。この場合に、交通事故に遭い、彼の利益が損なわれる危険性をいかに強調しても、状況の認知・把握能力の未熟な子供は、個別のケースにおいて、「この赤信号を無視しても、きっと事故に遭うことはないだろう」と軽率に誤信し、道路に飛び出してしまうことがあるかもしれない。そこで、子供の利益の安全をより確実に実現するためには、事故に遭う危険性を強調するのではなく、とにかく「赤信号を渡ってはならない」という教えを「絶対的な決まり事」として、(時に、守らなければ夜に現れる「お化け」の力を借りて)子供に定着させることが合理的なのである。この際に、母親は、子供の利益とは無関係に、決まり事を押しつけているのではない。あくまでも子供の利益を最大限に維持するために、「赤信号を渡ってはならない」という規範を、それ自体として絶対化しているのである。
 ただ、この例からも分かるように、「義務侵害モデル」の説明は、欺瞞的な性格を有している。すなわち、子の利益を維持するためとはいえ、「本当の目的」を前面には押し出さずに、義務そのものを絶対化することで、それに従順になるように子を仕向けているのである。そのような教育のあり方の是非は検討を要するが、少なくとも、このモデルが、規範の名宛人に対する「不信」に根ざしていることは確認されてよい。母親が、子供の状況把握能力への不信から、「お化け」の力を借りつつ、規範を絶対化させるように、浮気禁止という規範それ自体を絶対化するのも、浮気しようとする行為者が、その発覚の可能性について正しい判断ができないという不信に基づいている。このような、構成員の「自律性」を尊重しないモデルが、果たして長期的に、構成員の規範尊重意識を維持できるのかは、疑問なしとしない。

(3)「新しい法益」論の可能性
 このように考えると、やはり、規範の目的を感情の保護に求める以上は、個々の事例でも感情侵害の危険性を要求すべきであると思われる。そこで、このような理解を一貫させて、「バレない浮気」は許される、という結論を正面から認めるのも、一つの立場としてはあり得る。しかし、このような「開き直り」に甘んじてしまう前に、そもそも、恋愛法における保護法益が「感情」のみに尽きるのか、という点については再考の余地があろう。
 確かに、むやみやたらに新しい法益を設定してしまえば、「法益」概念が持つ、行動統制の範囲を限界づける機能が損なわれてしまうであろう。例えば、ここで「浮気されない権利」も法益に含めるべきだ、などと言い始めれば、およそすべての行為が、「◯◯されない権利」を侵害するという形で、恋愛法違反性が肯定されてしまうことになりかねない。
 しかし、行動統制の明確な指針としての法益概念の機能を損なわない限りで、保護が必要なパートナーの利益の法益性を承認し、行動規範の設定においてこれを取り込むことは、必ずしも不適切なことではなく、むしろ必要であろう。その限界は厳格かつ慎重な見定めが必要であるが、「感情」以外の利益の保護が恋愛規範システムから排除されなければならない、という必然性はない。
 そこで、「新しい法益」として、どのようなパートナーと交際するかについての、相手方の自己決定権を認める、という理解がありうる。もちろん、相手方のすべての属性について知った上で交際をするかどうかを決める自由を常に保障すべきとするのは、現実的とは言えない。そもそも、我々には、交際に際して、自分が相手にどう思われたいかというセルフイメージを自ら形成する権利があるはずであり、恋愛関係に入るからといって、自己のプライバシーに関する情報をすべて相手に開示しなければならない、とは言えないであろう。しかし、「浮気をするような」人間かどうかというような、いわば「交際の判断の基礎となるような重要な事項」については、知る権利を認め、これに恋愛法上の法益性を認める余地が十分にあると思われる。
 このような理解によれば、浮気行為は、それが最終的に発覚する場合にはパートナーの感情を侵害する一方、発覚しない(隠し通す)場合には、パートナーの「浮気するような人間とは交際しない」という決定の権利(ないし知る権利)を奪うため、いずれにせよ、法益の侵害に結びつく行為であるとして、その恋愛法違反性を肯定することが可能となろう。
 かくして、「新しい法益」を認めることにより、個別事例における法益侵害との結びつきを要求しつつ、浮気アポリアからの脱却を図ることが可能となる。無論、以上のような理解に対しては、自己決定権として法益性が認められる範囲、とりわけ、パートナーに知る権利が保障される「交際の判断の基礎となるような重要な事項」の範囲をどのように画するか、という難しい問題が投げかけられることになろう。しかし、この困難さは、新しい法益の導入を拒絶する理由にはならない。「法益」論は、その恣意的な拡張を断固として拒絶しつつも、社会の新たな要請に対して開かれていなければならないのである。

*1:刑法学における法益概念の歴史的な展開については、伊東研祐『法益概念史研究』(成文堂、1984年)、内藤謙「刑法における法益概念の歴史的展開」同『刑法理論の史的展開』(有斐閣、2007年)67頁以下等を参照。

*2:「恋人を傷つけてはならない」という一般的になされる言明も、恋人を感情的に傷つける行為の禁止を指示しているものとして理解できる。

*3:刑法学においても、人の感情を保護法益と構成することに対しては慎重な考え方が一般的である。例えば、曽根威彦「現代刑法と法益論の変容」同『刑事違法論の展開』(成文堂、2013年)35頁は、「同一の迷惑行為に対して引き起こされる情緒的反応はきわめて個人差が大き」いことを理由に、人の感情を刑法上の保護法益とすることは困難であるとしている。なお、感情の刑法的保護の問題を取り扱った近時の論文としては、内海朋子「感情の刑法的保護について 序論」横浜法学22巻3号(2014年)205頁以下、高山佳奈子「『感情法益』の問題性─動物実験規制を手がかりに」『山口厚先生献呈論文集』(成文堂、2014年)3頁以下等がある。

*4:なお、「不快原理(offense principle)」を提唱したファインバーグは、惹起された不快の強度(intensity)、持続性(duration)、範囲(extent)を、一般人の感覚を基準に決定すべきであるとし、異常な感受性(abnormal susceptibilities)を有する被害者のみが不快だと感じる場合を考慮に入れないものとしていた。See Joel Feinberg, Offense to Others, 1985, p.35.

*5:このような功利主義は、個々の行為に功利主義を適用する古典的な「行為功利主義(act-utilitarianism)」と対置され、「ルール功利主義(rule-utilitarianism)」と呼ばれている。瀧川裕英=宇佐美誠=大屋雄裕法哲学』(有斐閣、2014年)16頁以下等参照。

第1講「恋愛法とは何か」

1 はじめに
 本講では、恋愛法学という学問の研究対象や目的について概説をする。恋愛法学の歴史は浅く、未だ十分な議論の積み重ねはないため、その輪郭や研究の意義について確固たる共通認識が存在するわけではない。筆者は、恋愛法学を創始した張本人であるものの、「恋愛法学とは何か」という根本的な問いに対して、一義的な答えは持ち合わせていない。我々は、スタート地点から早くもこの難問に取り組まなければならないのである。

2 恋愛法とは何か
(1)社会規範としての恋愛法
 世間では一般的に、「恋愛法」という言葉は、「恋愛を上手く成就させるための方法」という意味で用いられる*1。この用法に従うならば、「恋愛法学者」は、恋愛について達人並みのテクニックを持ち合わせていることになろう。しかし、残念ながら、筆者はそのようなテクニックを持ち合わせてはいないし、本ブログで扱う「恋愛法」はそのような意味のものではない。
 本ブログが扱う「恋愛法」とは、我々の社会における、恋愛生活において妥当するルール(社会規範)の総称を意味する。およそ社会や集団には、その成員に遵守が期待される行動のルールが存在する。この「社会規範」と呼ばれるルールは、人々に他の成員の行動に関する予測可能性や期待をもたらし、彼らの生活に安定をもたらすものである。そして、このような行動のルールは、「恋愛」の関係の中にも存在する。すなわち、我々が他者と恋愛関係を構築する際には、当然に遵守されるべきルールの存在を前提に行動し、また、その遵守を他者にも期待している。さらに、その期待が破られれば、他の社会規範におけるのと同様、ルール違反者に対して、我々は「非難」を差し向けるのである。
 もちろん、このような見方に対しては異論もあり得るだろう。すなわち、どのような恋愛をするかは、人ごとにさまざまであり、個人の自由に完全に委ねられるべきであるため、恋愛において遵守が一般に期待されるルールなど社会には存在しない、という理解である。このような理解は、社会における「自由恋愛」の浸透とともに、今日では有力な考え方であると言えよう。このような考え方を、「恋愛リバタリアニズム」と呼んでおきたい。
 確かに、そもそも他人と恋愛をするかどうか、するとして、どのように恋愛をするかが、基本的に個人の自由であることは、全くそのとおりであろう。しかし、ひとたび他人との間で恋愛関係に入る場合に、パートナーを不必要に傷つけるような「自由」まで尊重すべきであるとは思われない。そのような自由を規範的に否認することで、恋愛における無用な苦痛や悲しみを除去することは、「自由恋愛」の否定ではなく、むしろ「自由恋愛」の補完なのである*2。もちろん、恋愛に対する過剰な規範的拘束が、人々の恋愛の自由を奪い、その活動を萎縮させるような事態があってはならない。しかし、そうであるからこそ、我々は恋愛における社会規範の存在を正面から認めたうえで、その限界について考察を巡らさなければならないのである。恋愛リバタリアニズムからの異論は、恋愛における自由を強調しすぎるあまり、この必要な考察から目を逸らすことを、「自由恋愛」という標語のもとで強引に正当化している疑いがあるように思われる。

(2)行為規範と制裁規範の区別
 他の社会規範と同様に、恋愛に関する行動のルールも時には破られる。このような事態を放置したのでは、規範に対する人々の信頼は損なわれ、他者の行動に対する予測や期待も失われてしまうだろう。それを避けるためには、動揺させられた規範の安定性を回復するための措置を講じなければならない。そのような措置として行われるのが、規範違反者に対する「制裁」である。
 規範違反者に対する制裁の内容としては様々なものが考えられる。口頭で、彼の行為に対する否定的な価値評価を伝達(非難)するだけという場合もあれば、それに加えて、何らかの苦痛や不快感を与える措置(殴打や絶交など)を講ずるという場合も考えられるだろう。いずれにせよ、ここでは、闇雲に制裁を加えればよいというわけではなく、制裁の内容も、規範の安定を回復させるために最も適合的なものでなければならない。とりわけ、制裁は、規範違反の程度に見合ったものである必要があろう(罪刑均衡原則)。適切な刑量を逸脱した不当に重い制裁は、規範違反者の「納得」を得ることができず、その反省や悔悟をむしろ阻害してしまうばかりか、他の構成員に対する説得力も失い、規範への信頼を回復する措置として不適切である。
 このように、規範違反者に対して、どのような程度・内容の制裁を加えるべきか、また、制裁を発動するための要件は何かという点についても、人により判断がバラバラというのでは困るのであり、やはり一定のルールを必要とする。この、制裁に関するルールは、「行為規範(Verhaltensnorm)」とは区別して、「制裁規範(Sanktionsnorm)」と呼ばれる*3。制裁規範は、行為規範を維持するのに資することで、間接的に社会の成員の利益を維持する、二次的なルールと位置付けることができよう。なお、広義の恋愛法には、恋愛に関する行動規範と制裁規範のいずれも含まれるが、一般的に「恋愛法」という場合には、恋愛に関する行為規範のみを指すことが多い(狭義の恋愛法)。本ブログでも、特に断りがない限りは、恋愛法という言葉をこの狭義の意味で用いることにし、制裁規範の方を指す場合には、「恋愛制裁法」という用語を用いることにしたい。

3 恋愛法学の意義
(1)学問としての恋愛法学
 それでは、恋愛法に「学問」として取り組むことの意義はどこに求められるのであろうか。恋愛法に限らず、多くの社会規範は上述したような構造を有している。「恋愛」に特化した形で、社会規範を切り出して、独自に学問化することの意義が問われなければならないであろう。
 言うまでもなく、恋愛をするかどうかは、個人の自由である。他人におよそ恋愛感情を持たない者もいるであろうし、恋愛と関わらない生き方を選択する者もいるであろう。しかし、恋愛をする人間にとって、それが社会生活における重要な部分を占める営みであることは、疑いがないように思われる。特に、恋愛に熱中する者は、1日の大半にわたって恋愛のことを考えているであろう。恋愛は人の生き方そのものに大きな影響を与える。それは、人生を幸福に謳歌するための営みになることもあれば、全く逆に、人を絶望の底に突き落とし、生きる気力さえも奪ってしまうこともある。恋愛という営みが、我々の社会生活において与える影響の大きさを考えれば、これを切り出して、本格的な研究の対象とすることには十分な理由がある。
 とりわけ、日常生活において「恋愛」が語られる場面においては、剥き出しの感情に支配されてしまうことが少なくない。このことは、恋愛そのものが、感情渦巻く営みであることに鑑みれば、当然のことである。しかし、そのような感情任せの恋愛トークをするだけでは、恋愛法の内容に関する正しい認識へと到達することは困難である。また、恋愛法に違反した者に対する制裁が感情任せに行なわれれば、行為規範の信頼の回復という、制裁規範に与えられた本来の目的の実現は阻害され、ただ非難者の感情的な満足だけが残されることになろう。
 恋愛法に「学問」として取り組むことの意義は、このような感情的な成り行きに振り回されることなく、論理的に規範の内容や構造を分析し、それらを体系的に整理することに求められる。これにより、恋愛法に関する問題について、合理的な討議を可能とするような、思考の枠組みを構築することこそが、恋愛法学に与えられた使命なのである。

(2)恋愛法学の課題
 恋愛法学の課題は、まず、我々の社会において現に妥当している、恋愛に関するルールを「発見」し、客観的に記述することである。そのような作業は、現に恋愛をしており、その行動のあり方に迷っている者に対して、必要な指針を提示することに資するであろうし、恋愛法に違反した者に対する、合理的な制裁の方法を検討する場面でも、必要な知見を提供してくれるだろう。
 このような「法の発見」に加えて、将来に向けた「法形成の方向づけ」も恋愛法学の課題に含めることができる。伝統的に形成されてきた恋愛ルールの中には、古臭いジェンダー規範にとらわれたような(「男(女)なら◯◯すべき」)、今日では正当性に疑いのあるものも少なくない。そのような規範に対して、その合理性や正当性を検証し、場合によっては、現時点で妥当している社会規範の改廃を考えることも必要である。その意味で、恋愛法学は、既存の社会規範に対する批判機能も担わされているのである。
 なお、以上の説明では、「法の発見」それ自体と「法形成の方向づけ」の区別を前提としているが、実際には、両者の区別が常に流動的であることにも注意しなければならない。すなわち、我々が「何が法であるか」を認識する作業の中には、「何が法であるべきか」に関する我々の考え方が必然的に反映せざるを得ない、ということである。我々の社会は、規範の発見と個別事例への適用を繰り返す中で、社会の望ましい発展に向けて、規範を常に修正し続けているのであり、それが規範の形成過程にほかならない。したがって、「法の発見」と「法形成の方向づけ」の区別を殊更に強調することには、あまり意味があるとは思われないのである。両者の区別は、既存の規範の外延が明確であり、その正確な認識が可能な領域では一定の意味があろうが、規範そのものの内容が流動的な領域では、法発見と法形成の方向づけが実際には重ならざるを得ない。とりわけ、価値観の多様化により、恋愛のルールの内容自体が動揺している現代では、「法形成の方向づけ」という視点を一切抜きにして、純粋な「法発見」のみを行う作業は不可能である。このことから、筆者は、「法発見」と「法形成の方向づけ」の一応の区別は認めつつも、両者に一体として取り組むことが、恋愛法学の課題であると解している。
 もちろん、「あるべき恋愛法」の探究にあたっては、学際的な考察が不可欠となる。例えば、恋愛に関する哲学的な知見のほか*4、科学的・心理学的な分析も必要となろう*5。その意味で、恋愛法学を修得しようとする者には、恋愛全般に関わる幅広い視野と知見が求められるのである。

【コラム 恋愛法学の起源】
 筆者が、恋愛法学に関する最初の論稿である「恋愛法序説」を投稿したのは、2012年3月24日のことであった。交際の解除に「正当事由」を必要とすべきではないか、という議論をしたのがその契機であり、当時はその違反に罰則を設ける「立法」をすべきであるという(明らかに問題のある)主張をしていたが、これは完全に若気の至りである。このような主張は、「恋愛法」を、恋愛に関する「法律」とする定義から、「社会規範」とする定義に移行する中で、消滅した。
 なお、以上の「正当事由」論は、当時法学部の学生であった筆者が、建物賃貸借契約の解除に正当事由を要求する借地借家法(28条参照)に着想を得たものである。その意味で、借地借家法は恋愛法の産みの親といえなくもない。

*1:このような意味で「恋愛法」という言葉を用いているものとして、一条ゆかり=高梨聖昭=竹内夕紀『「超」恋愛法─恋をするなら若い男と』(講談社、1996年)がある。

*2:宗岡嗣郎「自由の法理」三島淑臣教授古稀祝賀『自由と正義の法理念』(成文堂、2003年)57頁は、「自由」とは、単に「自分のやりたいようにやる」という恣意的なものではなく、「現実的な強制システムとしての社会に客在する規範的拘束の中で『できること(das Können)』」として把握されなければならない、とされる。

*3:我が国の刑法学において、行為規範(行動規範)と制裁規範の区別を犯罪論の基礎に置くのは、高橋則夫『規範論と刑法解釈論』(成文堂、2007年)1頁以下、同『刑法総論〔第2版〕』(成文堂、2013年)7頁以下、増田豊『規範論による責任刑法の再構築』(勁草書房、2009年)7頁以下。

*4:恋愛哲学についての代表的な著作として、荻野恕三郎『恋愛の哲学』(南窓社、1998年)。

*5:「恋愛学」と呼ばれる学問分野では、進化生物学や進化心理学、さらに社会学、経済学、政治学等を含めた統合的な見地から恋愛を体系的に考察することが試みられている。基本文献として、森川友義『なぜ、その人に惹かれてしまうのか?―ヒトとしての恋愛学入門』(ディスカヴァー・トゥエンティワン、2007年)、同『早稲田の恋愛学入門』(東京書店、2012年)等を参照。

はじめに-恋愛法学の世界へ-

とある居酒屋にて
A:あの男は、とんでもない奴だから気を付けた方がいい。自分から告白して付き合ったのに、たった3日間で飽きて別れたらしいぞ。
B:そうなんだ。でも、付き合って気持ちが冷めることもあるし、それも仕方ない気がするけどね。
A:仕方ないことはないだろう。3日間で別れるくらいなら、最初から告白しなければいいんだ。ただ無用に傷つけられただけの相手が余りにも可哀想じゃないか。
B:でも、相手に原因があったかもしれないよ?
A:そんなの弁解にはならないはずだ。もうあんな奴とは絶交しよう。そうすれば、あいつも少しは懲りるはずだ。

 社会生活を送るうえで、我々には様々なルールが課されている。その中には、国が法律の形式で定めたフォーマルなルールから、その時代ごとの習俗として暗黙の裡に形成されてきたルールまで、実に多様なものが含まれる。それらのルールを、通常我々は幼い頃から教育され、生活の中で実践し身につけていく。自身はその遵守を心がけ、自身と接触する他者に対しては、その遵守を信頼・期待することで、社会的に円滑なコミュニケーションを実現しているのである。そして、その期待が破られた場合には、ルールを破った者に対して、「非難」を差し向けることで(特に、法律が破られた場合には、刑罰という制裁が伴うことがある)、これらのルールの実効性を保とうとするのである。
 こうした社会生活を送る上でのルール(社会規範)は、「恋愛」の中にも存在している。すなわち、我々は、他者との間で恋愛関係を構築し、維持し、あるいは解消する場面において、社会の構成員として守ることが期待される一定のルールが存在することを前提に行動し、その期待が破られた場合には、ルールの違反者に対して、「非難」を加える。このような、我々の恋愛生活において現に妥当している社会規範こそが、本ブログで考察の対象とする「恋愛法」に他ならない。
 冒頭における「とある居酒屋」の会話においても、まさにこの「恋愛法」の実践が問題となっている。果たして、すぐに気持ちが冷めたことを理由に相手と別れる行為は、他人に非難されるような規範違反行為と言えるのだろうか?あるいは、すぐに別れるかもしれないのに、告白する行為が、すでに非難の対象とされるのであろうか?そうだとして、「すぐに別れるかもしれない」ことについて、行為者に現実の予見がない場合にも、その者を非難できるのであろうか?仮に、非難されるような行為であるとして、一体誰が、どのような制裁をすることが許されるのだろうか?
 恋愛法学は、こうした問いに対する、合理的な討議を可能とするような、思考の枠組みを構築することを目指している。枠組みもない中で、これらのトピックをいくら長時間話し合っても、論者同士の個人的な価値観や感情がただぶつかり合うだけであり、合理的な解決に辿り着くことは困難であろう。最終的には、「声の大きい」者の意見に流されて、散会になるというのが、まさに「居酒屋の恋バナ」の現状であると思われる。それは生産的でないばかりか、恋愛法の規範としての信頼や実効性を損なうものであろう。
 もちろん、本ブログの試みに対しては、「恋愛」における社会規範のみを切り取って、考察の対象とすることに、どれほどの意義があるのか疑問の声もあると思われる。恋愛法学などなくても、我々人類はこれまで、恋愛における社会規範を自律的に形成し、かつ、多年にわたって実践してきたのであり、これを今更学問の対象として捉え直すことの意義が、問われなければならない。また、価値観が多様化する現代において、そもそも、恋愛に関して特定の内容をもった規範が、社会において普遍的に妥当しているかどうか自体についても、疑問があり得よう。
 しかし、価値観が多様化し、規範が揺らいでいる現代だからこそ、恋愛のルールをめぐる議論が強く要請される。当事者間において、前提としている規範の内容に「ギャップ」が存在することは、常に紛争の火種となる。そのような紛争を合理的に解決し、あるいは未然に防ぐためにも、恋愛のルールを議論するための思考枠組みが求められるのである。無論、伝統的に社会に根付いてきた性規範には、その正当性に疑いがあるものも少なくないが、そうした規範の妥当性を改めて問い直し、将来に開かれた議論を可能とすることも、恋愛法学の課題といえる。
 恋愛法への学問的なアプローチの仕方としては様々な選択肢が考えられるが、本ブログの執筆者は、普段、刑法学を専門に研究していることから、ここでも、刑法学において蓄積された知見の応用を試みたいと考えている。刑法と恋愛法は、国家による「法」というフォーマルな形式をとっているかどうか、また、その違反に対して刑罰という国家的な制裁を予定しているかどうかという点で、違いはあるものの、「一定の行為規範への違反と、それに対する制裁の賦課」が問題となる点では共通している。刑法学において構築された理論枠組みや概念は、恋愛法の分析においても有益であろう。本ブログは、(刑)法学の知識がなくても理解ができるように心がけているが、より理解を深めるためには、法学に関する知識の修得が必要となる。他方で、法学の基本的素養がある者にとっては、本ブログの恋愛法学の議論が、法学に関する知見を深めることや、あるいは、再検討するための契機になるかもしれない。
 恋愛法学の議論は、大まかに言えば、「恋愛において、いかなる行為が禁止(ないし許容)されるか」をめぐる行為規範論と、規範違反が行われた場合に、「誰がいかなる制裁を課してよいのか」をめぐる制裁規範論の問題に区別できる。「とある居酒屋」の会話の例では、「あの男」による、いかなる行為が社会的に許されない(あるいは、許される)のかという議論が、行為規範論の問題に属し、「あの男」に誰がいかなる制裁を課してよいのかという議論が、制裁規範論の問題に属するといえる。そこで、本ブログでは、最初に、恋愛法学の総論的な原理を明らかにした上で、次に、具体的な行為規範について各論的な検討を行い、最後に、行為規範が破られた場合の制裁をめぐる検討を行うことにしたい。