窮状における意思決定と恋愛判断原則

〔Case〕 太郎は、恋人である花子に倦怠感を抱くようになり、別れたいと思うようになったが、花子が未だ自身に対して強い好意を抱いていることから、直ちに別れを告げれば花子を傷つけることになるだろう、と考えた。そこで太郎は、花子に嫌われたうえで別れを申し出れば、花子をそれほど傷つけないで済むだろうと予測し、あえて数週間連絡をせずにいた。その結果、花子は連絡がないことで不安を募らせ、辛い思いをしたが、それでも太郎への好意が揺らぐことはなかった。太郎は仕方なく数週間後に、花子が傷つくのを覚悟で別れを告げるに至った。

 恋の過程とは、幾多の迷いの連鎖である。そのような迷いの中で、時には辛く、苦しい選択を続けながら、我々は恋愛における自己実現を達成してゆくのである。そして、人間の認識に限界がある限り、その選択においては常に誤りが生じうる。もちろん、恋愛法学が、恋愛における行動規範の定立と、恋愛する市民への啓蒙の役割を担うことで、誤った選択、及び、その結果としての「不必要な悲しみ」を軽減しようと努めるものであることは言うまでもない。しかし、恋愛法学もまた人間的営為であり、恋愛法規範も完全無欠ではないのである。今回は、いわばその限界領域に焦点を当てることにしよう。

 〔Case〕において、太郎は「窮状」に立たされている。「恋愛法が最も幅を利かせるのは別れ際だ」という皮肉が言われることもあるが、まさに別れに際しては、相手の心を傷つける危険性が極めて高く、行為者には相手の精神状態に対する配慮が基本的義務として課されている。〔Case〕でも、太郎はそのような基本的義務を負っているのであるが、問題は、その具体的内容として、太郎がいかに行動すべきであったかという点にある。事後判断によれば、太郎の採った行動は、花子を不安に陥れたうえに、結局、別れを告げる際にも傷つけてしまっているのであるから、「誤算に基づく失策」であったと言わざるをえまい。しかし、そのことのみを理由として、太郎を恋愛法的に非難することは果たして妥当であろうか。注意しなければならないのは、太郎が、あくまでも上記の行動を、花子を傷つけまいとして採ったということである。最初に述べたように、人間は誤る生き物である。結果的に誤った選択が行われた場合を全て非難することはできないのである。その誤りが、恋愛法共同体にとって非難に値するものであるかどうかを、更に吟味しなければならない。

 学説においては、このような窮状における恋愛行動の選択・決定に際して、常に義務違反を否定する見解もみられたが、現在の多数説は、恋愛判断原則(love judgment rule)を基本的に採用している。これは、会社法の領域において、もともと米国で判例法として発達したルールである経営判断原則(business judgment rule)を参考に形成されたものであり、例えば次のように表現される。「義務の衝突を初めとした、恋のジレンマ状況や窮状において、行為者が選択・決定した行動が恋愛法に違反するかどうかを判断するにあたっては、前提としての事実の認識に不注意な誤りがなかったか否かという観点から、当該行動を採ることが著しく不合理と評価されるか否かによるべきである」。恋愛判断原則が適用されれば、ほとんどの場合、行為者に恋愛法違反が認められることはない。
 このようなルールを正当化する根拠として、まず恋愛の冒険性が指摘される。恋愛においてはリスキーな選択が行われることが往々にしてあるし、そのようなリスクと冒険性が、恋愛にとって重要なスパイスだとされるのである。恋愛判断への事後的な非難が安易に行われれば、そのような冒険的判断をすることに躊躇が生じてしまうだろう(恋愛活動の萎縮)。また、恋愛判断において重要な、当事者の関係性や相手の属性は、張本人が最もよく知っているはずである。以上のような理由から、恋愛窮状における当事者の判断は基本的に尊重すべきであり、例外的な場合にのみ恋愛法違反及びその非難を肯定すべきであるとされるのである。

 このような考え方は基本的に承認できるものの、かつての学説と異なり、窮状における判断に全く恋愛法が介入できなくなるものではないことに注意が必要である。つまり、恋愛判断原則の支持者によっても、例外的に恋愛法上の責任を肯定すべき場面が存在することは認められているのである。上述の表現の言葉を借りれば、「前提としての事実の認識に不注意な誤りがなかったか否かという観点から、当該行動を採ることが著しく不合理と評価される」場合には、なお恋愛法違反の余地が認められることになる。もっとも、具体的にいかなる場合がこれに該当するかについては、見解の一致を見出しがたい状況にあると言えよう。

 まず、窮状における意思決定に際して、行為者には判断に必要な事実を、正確に把握する義務がある。これには、当該判断を採用するリスクに関する情報が含まれる。〔Case〕に即して言えば、太郎からの連絡が途絶えた場合に、花子がいかなる心理状態に陥るか、あるいは、どのような行動を採りそうかといった情報や、あるいは、連絡が途絶えた位で、太郎のことを嫌ってくれるかどうかといった情報が含まれよう。基本的にこれらの情報は恋人のパーソナリティや性格に関わるものである。もっとも、恋人とはいえ、交際相手の人格の全てを把握することはできないし、「連絡が途絶えた場合に、当該恋人がどうなってしまうか」などの情報が、普段の交際態度から完全に明らかになることは、むしろ稀である。そこで、学説の多くは、行為当時の行為者を基準に、実際に入手していたか、あるいは入手可能な限りの恋人のパーソナリティ・性格情報を基礎として判断・決定がなされた場合には、恋愛法上の責任を問うことはできず、責任が問えるのは、そのような限定的な情報からさえも目を背けた場合のみである、としている。〔Case〕であれば、太郎が、例えば、花子が昔の恋人と音信不通になり、非常に辛い思いをしたが、長い間、未練を残し続けていたということを聞き知っていたにもかかわらず、早々に別れを切り出す勇気がなかったために、この情報に対して目を瞑ったような場合には、太郎の恋愛法違反が認められることになろう。

 これに対して、近時有力な学説は、上記のような観点に加え、さらに「信頼できる第三者機関への相談義務」の観点が重要である、としている。この指摘は、一見すると、「恋愛判断において重要な、当事者の関係性や相手の属性は、張本人が最もよく知っているはず」という恋愛判断原則の前提と矛盾するようにも思える。しかし、「当事者の関係性や相手の属性」については、張本人が(不完全ながら)よく知っていると言えても、そのような情報を前提にしたとき、「どのような恋愛行動が一番相手を傷つけてしまうか」に関しては、豊富な「経験」こそが唯一の教師である。ところが、いくら当事者とはいえ、否、当事者であるからこそ、当該相手方との間で、過去に全く同一の窮状に立たされたことなど通常はないはずである(あるとすれば、その学習能力が深刻に疑われよう)。そこで、経験が豊富で信頼のできる第三者に、状況を説明し、きちんとしたアドバイスを受けることが重要な意義を持つことになる。そのような第三者機関として誰を選定するかは一つの問題であるが、多数の恋愛相談を経ることで、様々な恋愛問題の解決をしてきたであろう「恋愛法学者」に相談することは考えられて良いであろう。反対に、自身に都合の良いアドバイスをしがちである、身近な友人などは忌避すべきであると思われる*1
人間の弱さに鑑みれば、不都合な事実から(意識的であれ、無意識的であれ)目を背けてしまいがちであることは、恋愛窮状における判断においても、基本的に織り込んでおかなければならないであろう。このことからも、公平な第三者に、判断を仰ぐことの重要性が明らかとなる。以上の有力説によれば、〔Case〕において、恋愛法学者などの「信頼できる第三者機関」への相談を怠ったことを根拠として、太郎に恋愛法違反が成立する余地が認められることになる。有力説の指摘は基本的に妥当なものとして支持できると考えられるが、「信頼できる第三者」の範囲に関する議論に加え、いかなる窮状において相談義務を認めるかという問題は残されている。この点は、恋愛判断原則の精緻化に伴う、今後のさらなる課題であろう。

発展講義──行動ルールと制裁ルール──
 上記の講義中では、恋愛法における行動ルールと制裁ルールの区別が特に意識されていないが、これは本講義で未だこのテーマを本格的に紹介できていないためである。しかし、恋愛判断原則の適用に際しても、本来この両者の区別は極めて重要な意義を有しており、これを踏まえなければ完全な理解に到達することは不可能である。そこで、ここでは上級者向けに若干の補足説明を行っておきたい。
 恋愛法の第一次的任務は、恋愛における行動規範の言語的記述に求められる(通説)。ここでは、行動ルールの解明のみが問題とされている。今回の講義との関係でいえば、「当該行動に付着するリスクを分析するための情報を手に入れなければならない」であるとか「信頼のできる第三者に相談しなければならない」といった命令規範が、行動ルールの問題として取り上げられている。こうした行動ルールの存在を理論的に正当化すると共に、恋愛市民に周知することで、恋愛社会の秩序を維持することが、恋愛法学の重要な役割なのである。
 他方で、この行動ルールが破られた場合に、社会がどう対処すべきか、という問題が別にある。将来の講義で扱う予定の「恋愛紛争処理法」に関する議論がその中心であるが、さらに、行為者に対する制裁ルールの議論もこれに属することになる。制裁ルールとは、行動ルールを破った行為者に対して、被害者や周囲の第三者が、いかなる要件を満たせば非難を加えることができるかに関するルールである。その背景には、行動ルールを破った行為者に対して、何らかの社会的制裁を科すことで、動揺した秩序を安定化させるという実践的意図がある。ただし、制裁ルールに関しては、恋愛法学の任務から外れる、とする有力な見解があるため、注意を要する。この見解によれば、行為者を非難するかどうかは、社会に完全に委ねられており、それを明示的にルール化する必要はない、とされている。しかし、制裁の要否や可否をめぐって、二次的な紛争が多々生ずることに鑑みれば、それらをルール化し、恋愛というシステムを保持しようとする社会に予め提示しておくことには、重要な意義が認められるものと思われる。詳細な議論は後日紹介するが、いずれにせよ、行動ルールと制裁ルールは以上のように、区別して取り扱われるべきものなのである。
 今回の講義が参照した刑法の過失論や会社法における経営判断原則は、基本的に、何らかの法益侵害や損害が発生した場合に、刑法的責任の追及あるいは、取締役の善管注意義務違反が問われる場面で問題とされるものである。つまり、「結果の発生」が議論の前提にある*2。ところが、行動ルールの場面では、「結果の発生」が問われることはない。「〜するな」「〜せよ」という禁止・命令規範に違反して行動したかどうかのみが問題であるため、その結果何が起こったかについて、行動ルールは関知しないのである。これに対して、制裁ルールの場面では、まさに「結果」の位置づけが重要な問題となる。学説は分かれるが、制裁の要件として、「結果」を必要とする見解によれば、行動ルール違反の結果、恋愛相手が「不必要に傷ついた」ことと、その間の因果関係が肯定されなければならない。一方で、「結果」を不要とする見解によれば、行動ルール違反があれば、結果の発生を問わず行為者を非難することができる。刑法の議論でいえば、行為無価値結果無価値二元論と、行為無価値一元論の対立に概ね対応するものである。
 恋愛判断原則的な考慮は、上記の行動ルールと制裁ルールの設定においてそれぞれ意義を有する。まず、事前的な行動ルールの設定に際しては、採るべき行動の内容を細部にわたり予め指示・記述することができないという点に、窮状における恋愛判断の特殊性が現れる。恋愛判断原則の根拠のうち、特に「恋愛判断において重要な、当事者の関係性や相手の属性は、張本人が最もよく知っている」がここでは妥当しよう。この領域においては、事前的・一般的見地からなされる詳細な行動規範の設定がそもそも不可能なのである。それゆえ、記述される行動準則も「情報収集」や「第三者への相談」という手続的側面に特化した内容のものとなる。他方で、制裁ルールの設定においては、恋愛判断原則の根拠の中でも、特に「恋愛判断への事後的な非難が安易に行われれば、そのような冒険的判断をすることに躊躇が生じてしまう」ということが妥当するであろう。恋愛判断原則を完全に理解するためには、これらの区別を意識することが重要となる。

*1:これに対しては、身近な友人こそが、真剣に、行為者にとって最善の(=相手を一番傷つけないで済む)選択を考えてくれるのだから、むしろ第一次的な相談先に相応しいのではないか、との反対説がある。もっとも、この点は、見解の対立というよりも、「身近の友人」として、どのような人物を想定するかの違いであるともいえる。

*2:刑法における過失犯処罰は、基本的に法益侵害結果の発生が予定された結果犯でしか問題とされていない(例えば刑法210条)。また、取締役の任務懈怠責任(会社法423条1項)が問題となる場面では、会社から取締役に対する損害賠償請求権の存否が争われているのであるから、何らかの損害の発生は、問題の前提である。