恋愛法の名宛人は誰か

 恋愛法とは、「恋愛関係において妥当する規範」であると定義される。したがって、その適用範囲は基本的には恋愛関係にある当事者であるということになり、また恋愛法という規範の名宛人(対象者)もまた、これと一致することになろう。しかし、ここでいう「恋愛関係」が何を指すのかについては、恋愛法学者の間においても一致した見解が得られておらず、むしろその理解を巡ってこれまで喧々諤々の論争がなされてきたところである。本講義では、この点に関する従来の議論を整理した上で、今後の議論の方向性について考えてゆくことにしたい。

 まず、仲良しカップルが恋愛関係にあることについては、異論なく認められる。恋愛法が、法として妥当する根拠はまさしく、愛ゆえの過酷な苦しみを、自分を愛してくれる相手方に与えるような行為は、規範的に否認されるべきである、ということに求められている。このような恋愛法の妥当根拠からすれば、愛する者同士の関係は、恋愛法のまさに中心的な適用領域であるということができるであろう。
 しかし、愛というのは、カップルが成立することにより突然に発生し、別れることにより突然に消滅するものであるとは観念されていない。むしろ、愛とは、流動的な醸成あるいは消滅過程の中にのみ存在することができるのである。その意味では、告白や別れを告げる行為の有する意義は形式的なものに過ぎないといえる。学説上は、告白に対するOKサインによって交際が開始される時点が恋愛関係の始期であり、また別れが告げられ交際が終了した時点が恋愛関係の終期であるとし、始期以前及び終期以後については恋愛法が一切適用されないとする見解もある。この見解は、始期と終期を、恋愛当事者の表示を基準に設定することにより、恋愛法の適用領域を明確にすることを意図するものである。確かに、規範の適用について予測可能性を与え、規範の安定性を確保しようとする同見解の方向性自体は全く正当なものである。しかしながら、始期以前及び終期以後において存在する愛ゆえに当事者が受ける苦しみについて、恋愛法が全く無関心でいることはできない。形式的な交際関係にあるかどうかは、恋愛法の適用においても一定の意味を持ちうるが、その規範妥当根拠からして重要なのは、むしろ「実体としての愛」が存在することであろう。
 したがって、形式的な交際関係の始期以前及び終期以後についても、恋愛法が適用される場合があることは承認すべきであるように思われる。この場合、形式的な交際関係にある場合における恋愛関係を狭義の恋愛関係とし、狭義の恋愛関係にはないが、恋愛法が妥当すべき関係を準恋愛関係と呼び、両者を包摂する概念として広義の恋愛関係を設定するという整理が恋愛法学上は一般的である。狭義の恋愛関係にない場合に特有の問題が恋愛法上多く存在することからすれば、これを準恋愛関係として概念上整理することの有用性は否定しえず、基本的にはこのような概念整理を支持することができる。ただし、狭義の恋愛関係と準恋愛関係の質的差異を不必要に強調するべきではない。両者は共に同一の根拠によって恋愛法が妥当するのであり、準恋愛関係の要保護性が狭義の恋愛関係に比して常に低いともいえないことに注意をする必要があろう。

 それでは、[事例]太郎は、親友の次郎の彼女である花子をホテルに誘い、花子とホテルにおいて性行為をするに至ったという場合に、太郎に次郎との関係で恋愛法違反は成立するだろうか。この場合、太郎は次郎との間で恋愛関係にないことは明らかであろう。恋愛法が、「自らを愛してくれる者を傷つけてはならない」という規範であることからすれば、太郎と次郎の間で恋愛法が適用されることがないことは、いわば当然の帰結である。これに対して、このような場合にも太郎には、恋愛に関して、友人を裏切ってはならないという規範に違反しているのであり、その行為は恋愛法に違反するはずであると主張する学説が、かつては唱えられていた。しかし、仮にそのような規範が妥当しているとしても、その妥当根拠は、決して先に述べたような「愛ゆえの苦しみ回避の要請」にないことは明らかである。このように、妥当根拠が異なる規範を、恋愛法の問題として同一に把握してしまうことで、本来、恋愛法という規範が、その名宛人に対して有すべきメッセージまで薄れてしまうのではないか、ということが強く危惧される。友人を裏切らないことが、社会共同体において規範として妥当しているかどうかは考察に値する一つの問題であろうが、少なくとも恋愛法の関心領域からは外れるであろう*1
 なお、近時の有力説は、事例において、太郎と次郎の関係に着目するのではなく、次郎と花子の関係に着目した上で、花子に恋愛法違反(浮気禁止法理違反)が成立することを確認し、太郎の行為がこの恋愛法違反に因果性を有することから、太郎にも花子の恋愛法違反を幇助あるいは教唆した限りにおいて、恋愛法違反が成立する、との主張を展開している(恋愛法の第三者効力肯定説)。ここでは、被侵害法益として、次郎の「浮気されない利益」が設定されており、かつての学説が、次郎の「友人に裏切られない利益」を設定していたこととは明らかに異なるものである。この点で、かつての学説とは一線を画するものであるといえよう。しかし、太郎に対して、そのような幇助あるいは教唆行為をするなという禁止を恋愛法が発するのであれば、やはりそのような禁止規範が妥当する根拠を明らかにする必要があり、その限りで、かつての学説が内在的に有していた欠陥を、同説が真に克服するものであるかどうかという点については、なお慎重に検討する必要があろう。

*1:恋愛をうまく成就させるためには、友人が重要な役割を果たすということについては全くそのとおりであるし、事例のような恋愛紛争は、太郎と次郎が親友という関係にあるという事情を無視して、その実態を適切に把握することはできないことについて否定するつもりはない。しかし、このことと、恋愛法がいかなる関係において妥当する規範であるかということとは、論理的に全く無関係であると言わざるを得ない。