浮気をしてはならないのは何故か

 「浮気をしてはならない」という行為規範が恋愛法として承認されていることは、今やほとんど異論のないところであると思われるが、この浮気禁止法理の歴史は浅い*1。ここで、浮気や不倫に関する歴史的考察に深入りすることはできないが、浮気がいかなる時代・社会背景のもとにおいても規範的に否認されるというわけではないということは、最初に確認しておく必要があろう。それは、「規範」というものの宿命でもある。

 さて、恋愛法は、「自分を愛する者を傷つけることなかれ」という規範として存在するものである。浮気行為が、まさしく自分を愛する者を傷つける危険性を有する行為であることからは、浮気行為が恋愛法において禁止されるという帰結が素直に導かれるだろう。そこで、現在の通説は、浮気禁止法理が妥当することを、当然のこととして承認している。
 これに対して、少数説は、「浮気は文化である」ということを根拠に、浮気の中にも許容されるべきものが存在し、浮気行為を一律に禁止することは不当であると主張している。しかしながら、そもそも「浮気は文化である」という抽象的な根拠は受けいれがたい。さらに、少数説からは、「浮気禁止法理は、『浮気』という不明確な言葉によるラベリングによって、およそ異性とのコミュニケーションを禁止し、自己実現を阻害する危険を内在する法理であり、そのような法理を承認することはできない」という批判が、通説に対して向けられている。しかし、「浮気」という文言自体が不明確であるからこそ、「浮気」とは何かを明らかにすることが、まさしく恋愛法学に課された使命とされるのではないだろうか。また、通説の立場も、およそ異性とのコミュニケーションを阻害することは意図しておらず、むしろ、許されるコミュニケーションと許されざるコミュニケーションの線引きをいかにして行うかという点に対し、(正当な)関心を抱くものである。少数説は、そのような関心を、「浮気は文化である」という薄弱な根拠のもとで、不当に放棄したきらいがあり到底支持できるものではない。また、かりに少数説が、「許されない浮気」の存在を認めるのであれば、それは「浮気」という言葉の定義の問題に帰着するのであるが、そうだとすれば、恋愛関係において絶対的に禁止されるべき行為として「浮気」を定義付け、これに該当するかどうかを判断するという思考方法が、方法論的にも優れているのではないだろうか。あえて、「浮気」を異性とのコミュニケーション全般と広く定義し、その中で許されるものと許されないものを仕分ける必要はないはずである。

 このように、浮気行為が禁止されることは現在の恋愛法学においては、通説となっているが、浮気によって誰のいかなる利益が侵害されるのかについては、それほど明らかではない。ここに、浮気禁止論の悩ましい問題がある。私の恋愛法理論からすれば、恋愛における行為規範も法益との関係でのみ設定される(法益侵害の危険性のある行為が禁止の対象となる。)。したがって、浮気の規範違反性を論証する場合にも、浮気によって侵害される利益の内実を明らかにすることに無関心でいることはできないのである。
 これに関する、一つの明確な答えは、次のようなものである。つまり、浮気とは、それをされたことを知った者に深い悲しみを与える行為であり、ここでは恋愛相手の感情利益が侵害されるため、規範的に禁止されなければならない、ということである。この説明に依拠するならば、浮気行為は、恋愛相手にそのような深い悲しみを与えることの許されざる危険を創出する行為として把握されることになる。この見解は、その理論的明快さから、すぐさま通説となるに至ったが、近時においては、「バレない浮気のアポリア」と呼ばれる難問のもとで重大な疑問が投げかけられている。つまり、浮気行為をこのように把握するとき、このことからの素直な帰結として、危険創出が認められない場合には、恋愛法が禁止する浮気行為ではないことになり、したがって「絶対にバレない浮気」には禁止規範が向けられないという結論を承認せざるを得ない、という問題である。この問題をめぐり、「浮気禁止法理の危機」が叫ばれ、恋愛法学界においても大きな議論が巻き起こった。
 この問題について、上のような説明を貫徹しようとする立場からは、「絶対にバレない浮気」に禁止規範が向けられないのは、保護法益を侵害する危険性が認められない以上、当然であるとする。この説明からすれば、そもそも浮気禁止法理は危機に瀕してなどいないことになろう。さらに、「絶対にバレない浮気」などそもそも存在しないことから、このような問題について議論すること自体が不毛であるとする主張も展開された。もともと、恋愛法違反行為の実行行為性は、相手を悲しませる危険性(可能性)の大小のみで決定されるものではなく、「許されざる」かどうかという規範的観点から判定されるべきものである。浮気行為については、その行為自体に特に社会的有用性は見出せず、僅少な危険性のもとでも実行行為性を獲得できる、という指摘が可能であり、そのような僅少な危険性さえもない浮気行為など現実にはあり得ないという主張自体は、全く正しいものである。しかし、この問題は、浮気行為がなぜ禁止されるのかという妥当根拠を見出すための試金石として、なお意義を有するものであり、議論すること自体が不毛であるという批判は当たらないように思われる。
 浮気禁止法理の妥当根拠について、従来の学説が「浮気の事実を知った恋人を悲しませない」という点に求めたのに対し、近時の有力説は、浮気禁止法理を、その保護法益の内容から再構成する試みを行っている。有力説によれば、浮気禁止法理においては、恋愛相手や、さらに浮気相手の「恋愛紛争(ラブ・コンフリクト)に巻き込まれない利益」も副次的な保護法益に位置付けられているものとされている。つまり、浮気行為が明らかになることにより、恋愛紛争が生じることはもちろん、これが明らかとならないでも、浮気相手が罪悪感を抱く、あるいは浮気者のことを好きになってしまったものの、自分が浮気相手に過ぎないことに悩まされるなど、様々な形で恋愛紛争は生じ得るのであり、浮気行為はまさしく、その後において起きうる、あらゆる恋愛紛争の種を植えつける行為である、と考えるのである。このような有力説からすれば、浮気が彼氏(彼女)にバレるかバレないかは、この副次的法益との関係において重要性を失う。注目すべき見解であるが、理論的に難点も多く*2、なお慎重な検討を続けてゆかなければならないであろう。この他にも、恋愛相手の自分に対する信頼が保護法益であり、浮気行為をしたこと自体によって、この信頼が害されるものとして、「絶対にバレない浮気」も禁止されるとする見解があるが、バレていないのであれば現実の信頼は、阻害されようがないはずである。このような現実の信頼ではなく、観念上の信頼(信頼の可能性)を想定すべきである、という反論がなされることもあるが、そもそもそのような観念上の信頼が保護法益としての適格を有するのかも疑わしいであろう。

 以上のように、浮気禁止法理の議論においては、それが妥当することを当然のこととして承認した上で、なぜ妥当するのかという保護法益の探求に焦点が当てられている。恋愛法を、恋愛法益保護主義の観点から基礎づけようとする立場からは、このことが積極的に評価されるものの、この問題を真に解決するためには、浮気禁止法理との関係においてのみではなく、よりマクロな視点から、そもそも恋愛法における「法益(Rechtsgut)」とは何を意味するのかについて正面から検討することが不可避となるであろう。

*1:近年に至るまで「浮気は男の甲斐性」などとされ、男の浮気は容認される風潮が続いてきたことが指摘される。このような社会においては、「浮気をしてはならない」という規範が、恋愛法益保護主義の観点からして妥当なものであると観念されるとしても、それが規範として確証されているとはいえないのである。

*2:例えば、浮気相手の法益に要保護性が認められるかどうかが問題である。浮気相手は、自らが浮気相手となることを認めて浮気関係に入ったのであり、紛争に巻き込まれない利益は放棄されていると考えることも可能である。また、浮気相手ではなく、彼女(彼氏)の紛争に巻き込まれない利益に着目するとすれば、やはりバレない限り彼女(彼氏)が現実の紛争に巻き込まれることはなく、「絶対にバレない浮気」に実行行為性は認められないことになる。