高橋則夫『規範論と刑法解釈論』

1 はじめに

 本ブログの筆者は、刑法学において結果無価値論体系を採用しているが、恋愛法の分析においては、行為規範と制裁規範とを区別し、第一次的には恋愛において妥当する行為規範への違反を問う、行為無価値論的な規範体系を採用するのが優れていると考えており、本ブログ全体もまさにそうした構想に基づいている。こうした構想を抱くにあたり、筆者に決定的な影響を与えたのが、日本を代表する行為無価値論者の一人である高橋則夫教授の著書『規範論と刑法解釈論』(成文堂、2007年)である*1。そこで、本記事では、本書の概要を簡潔に紹介し、恋愛法学に与える示唆がどのようなものであるかを説明したい。

2 本書の概要

(1)行為規範と制裁規範の区別

 本書における中心的な主張は、刑法における規範構造が、行為規範(Verhaltensnorm)と制裁規範(Sanktionsnorm)から構成される、という点に求められる。前者の行為規範とは、例えば、「人を殺すな」とか「他人の物を盗むな」というように、一定の行為態様を正当あるいは不当と示して、人間の行為を統制するルールのことを指す。これに対して、制裁規範は、行為規範違反に対して、刑罰を科す際に問題となるルールである。両者は、それが誰に向けられたルールかという名宛人の点において、大きく異なる。すなわち、行為規範は、(私を含めた)一般人に向けられているのに対して、制裁規範は法を適用する者、すなわち裁判官に向けられているのである。
 これら異なる2つの規範の存在意義について、本書は次のように説明する。まず、行為規範は「社会の共同生活にとって不可欠な方向づけの安定に影響を与えるもの」であり、「一般人の行動予期の状態を創設」するものである(本書7頁)。前述したとおり、行為規範は、人間の行為の中で、「やっていいこと」と「やってはいけないこと」を我々一般人に向けて示すルールであった。仮にこのルールが存在しなければ、我々は行動の指針が得られず、他者がどのように行動するかも全く予期できないものとなり、この世界はカオスなものとなってしまう。これに対して、予め行為規範という形で、人間の行為を統制するルールが置かれていれば、他者の行動に対する予期が可能となる。刑法上の行為規範は、社会の共同生活が平和に行われるように、人の生活に役立つ利益を不当に脅かすことを禁止するルールであり、安定した共同生活の実現に資するものとなる。なお、ここでいう「人の生活に役立つ利益」として、刑法上の行為規範が保護を目指そうとする利益こそが、刑法上の「保護法益」に他ならない。
 もっとも、行為規範は常に守られるとは限らない。ある人がこのルールを破った場合に、これを放置すれば、次々と行為規範に違反する者が現れ、前述したような他者の行動予期の可能性は全く担保されないことになってしまう。そこで、ある人が行為規範に反する行動をした場合に、そのような規範への裏切りに対して、制裁によって対処することが必要となる。制裁を発動することにより、当該行為規範が依然としてこの社会において妥当しているということが確認されなければならないのである。
 とはいえ、行為規範違反があれば、その内容を問わず、常に制裁を発動させるべきであるとは限らない。また、制裁を発動するとしても、どのような内容の制裁を課すべきか(死刑か、懲役刑か、罰金刑か)はさらに問題となる。このことから、刑罰を課す際にも、その刑罰の発動や内容について規定するためのルールがさらに必要とされる。それこそが、刑法における制裁規範に他ならない。
 以上のように、法益保護という刑法の目的にとり第一次的な手段となるのが行為規範である一方で、制裁規範は、行為規範の維持に貢献することにより間接的に法益を保護するという、第二次的な手段と言える。法哲学者であるハートは、ルールを第一次ルール(primary rules)と第二次ルール(secondary rules)に区別しているが、前者が行為規範に対応し、後者が制裁規範に対応すると考えられる(本書4頁)。
 注意を要するのは、制裁規範が常に行為規範を前提とするのに対して、行為規範の違反に対しては、必ずしも制裁が賦課されるわけではない、という点である。例えば、未成年者飲酒禁止法1条には「満二十年ニ至ラサル者ハ酒類ヲ飲用スルコトヲ得ス」との規定があるが、これには罰則がないため、未成年者が飲酒をしても処罰されることはない(補導の可能性はあるが、これは制裁ではない)。行為規範は民法などの法律により示されることもあり、刑罰を前提としない行為規範は他にも多く見られる。要するに、行為規範による法益保護は刑法の専売特許ではない、というわけである。

(2)未遂犯の成立時期

 本書では、以上のような刑法の基本的な規範構造が、幾つかの具体例に照らして明快に説明されている。ここではその全てを紹介することはできないが、一つの例として、未遂犯の成立時期の問題を取り上げたい。
 例えば、XはYの家にあてて、殺意をもって毒入りのワインを発送したが、配送業者のミスで、配達前に毒入りワインを地面に落としてしまったため、瓶ごと割れてしまい、毒入りワインがYの家に届くことはなかったという離隔犯の事例における、未遂犯(殺人未遂罪)の成立時期に関して、学説上は発送時説と到達時説の間で争いがある。
 この設例で問題となる行為規範は、「人を殺してはならない」というものである。この行為規範が破られる時点というのは、言うまでもなく、規範に違反する「行為」がなされた時である。行為者の行為の時点を離れて、行為規範が破られることはあり得ない。そして、この「行為」の時点というのは、殺人禁止規範との関係では、人の生命に対する「許されない危険を創出」した時点ということになる。問題は、この「危険」の中身であるが、ここでは行為規範への違反、すなわち、一般人による行動予期への裏切りが問題となることから、その危険は「抽象的」なもので足りるとされる。それゆえ、必ずしも客観的で具体的な危険が認められることまでは必要なく(本書36頁)、その行為をすると、人が死んでしまうかもしれない(だからやめておくべきである)という程度の抽象的な危険があれば、それで十分とされるのである。このような抽象的危険を有する行為こそが「実行行為」であり、事例では、Xが配送業者に対して、配送依頼書と共に毒入りワインを手渡した時点で、実行行為(行為規範への違反)が認められる。
 もっとも、本書によると、この時点ではまだ未遂犯の成立が直ちに認められることにはならない。行為者に未遂犯の刑罰を賦課するためには、さらに制裁規範の発動条件を満たさなければならないのである。本書によれば、その発動条件となるのが、「法益に対する具体的危険」である(本書36頁)。ここでは、先のような、一般人が感じる抽象的危険では足りない。上記事例では、Yが危うく毒入りワインに口に含もうという段階になって初めて、生命という法益に対する具体的な危険が肯定される。それゆえ、事例の解決としては、毒入りワインが、Yの家に到達しなかった以上、制裁規範の発動条件が満たされず、Xに殺人未遂罪の成立を認めることはできないということになる。

(3)違法本質論との関係

 周知のとおり、刑法学では違法の本質をめぐって結果無価値論と行為無価値論の論争が展開されている。本書の展開する犯罪論体系は、行為規範というレベルで行為無価値を問題とし、制裁規範というレベルで結果無価値を問題とすることから、二元論の意味での行為無価値論に位置付けられる。
 本書の二元論の特徴として、行為無価値だけで可罰的違法性を認めない点を挙げることができよう。つまり、既遂犯はもちろん未遂犯についても、行為規範の違反に加えて、制裁規範の発動条件が満たされなければ、処罰に値する違法性は認められないのである。これに対して、同じく日本を代表する行為無価値論者の一人である井田良教授は、行為無価値のみでも十分な処罰根拠になることを認めておられる。そのいずれが妥当であるかをここで論じることは、現在の筆者の能力を超えるが、井田教授の見解によると、既遂犯と未遂犯とで、異なる処罰原理を採用することになってしまうことには注意を要するだろう。
 他方で、結果無価値論は行為無価値論に対して、大まかに言えば次のような2つの批判を向けてきた。第一に、行為無価値論は、社会倫理的秩序を維持しようとするものであって、国民に道徳を強制する危険がある。そして、第二に、行為無価値論は、外界の不良変更という客観的な事態の発生とは無関係に、行為規範への違反を問うことから、そのような規範違反が一人歩きをすることで、処罰範囲が不当に拡大する危険がある。
 しかし、このような常套的な批判は、本書の構想する行為無価値論に対しては直ちに当てはまらない。まず第一の点について、本書は、「リベラルな共同体」を志向する立場から、刑法の目的を法益保護に求め、第一次的な行為規範と第二次的な制裁規範を、そのための手段に位置づけている。それゆえ、本書の構想する規範論は、決して法益保護とは無関係な、社会倫理的秩序の維持を志向するものではない(本書7頁)。また、第二の点についても、前述のように本書は、制裁規範の発動条件として常に結果無価値を要求することから、必ずしも行為無価値が「ひとり歩き」を始め、処罰範囲が不当に拡大するという批判は当たらないであろう。むしろ、結果無価値論が、違法段階で法益侵害結果の因果的惹起のみを問題とするために、国民の「行動予期」という視点が欠落していることが問題とされなければならない。

3 恋愛法学との関係

(1)刑法学と恋愛法学の違い

 以上、かなりつまみ食い的な紹介になってしまった感は否めないが*2、恋愛法学において参照すべきエッセンスは十分に示せたように思われる。
 すでに見たように、本書が提示する行為無価値論体系は魅力的なものであるが、筆者は冒頭でも述べたように、刑法学においては結果無価値論体系を採用している。その理由は、結果無価値論体系を採る刑法学の著作*3により大きい魅力を感じたからだ、と言ってしまえばそれまでである。が、あえて言うならば、それは筆者が、刑法学の主要な任務を、犯罪の成否の適切かつ合理的に認定に資するような理論の構築に求めているからである*4。一般国民による「行動予期」の確保は、少なくとも刑法学の主要な任務ではなく、合理的な犯罪「認定」のためのルールの提示によりせいぜい間接的に果たされるに過ぎない(し、それで足りる)と考えるのである。
 これに対して、恋愛法学では事情が全く異なる。というのも、ここではまさに、恋愛をしている当事者にとり、どのように行動すれば良いかという行為規範を提示するかが、まさに中心的な関心となるからである。それゆえ、恋愛法学においては、行為規範論を中心としつつ、その違反があった場合の制裁規範を二次的なものとする規範構造を前提に、問題を整理していくことが有効な戦略となるのである。恋愛法とは、本書の言葉を拝借しつつ定義し直すとすれば、「社会の恋愛生活にとって不可欠な方向づけの安定に影響を与えるもの」であって、「恋愛関係における行動予期の状態を創設」する行為規範に他ならない。この行為規範は、恋愛における法益保護を志向するものである。

(2)恋愛法の弱点?

 ところで、法哲学者ハートは、「第一次ルール」の欠陥として3つのものを指摘していた*5。第1の欠陥は、そのルールの内容を確認する共通の標識がなければ、何がルールであるか不明になるというルールの不確定性である。第2の欠陥は、変化する状況に意識的にルールを適応させる手段が存在しないという、ルールの静的性質である。第3の欠陥は、ルールを維持する社会的圧力が散漫なため生じる、ルールの非効率性である。
 これらの欠陥は、実は、恋愛法にそのまま当てはまる。すなわち、第1に、何が恋愛におけるルールであるかについて共通の標識が欠如するため、恋愛法には不確定性が認められる。第2に、価値観の多様化により恋愛のルールは目まぐるしく変化しているにもかかわらず、そのような状況にルールを適応させる手段は存在しない。第3に、恋愛法に違反する行為が行われた場合に、行為者に対して加えられる制裁はバラバラであり、規範統制の効率性は極めて乏しいものになっていると言わざるを得ない。刑法の場合には、罪刑法定主義原則の下、何が犯罪であるかが法律で明確に定められ、それに対する制裁の量的範囲や種類も規定上明らかである上、その改廃に要するプロセスも上位法である憲法により明示されていることと対照的といえよう。
 これは、国家の成文法ではなく社会規範の一つに過ぎない恋愛法の大きな弱点であるとともに限界でもある。しかし、恋愛の規範的統制を志向する恋愛法学を構想する上で、恋愛法規範の持つこれらの弱点は、可能な限り克服されるのが望ましく、これを目指す議論を続けることは必要であるように思われる。具体的には、法律の形を取らないにせよ、恋愛の行動ルールを明文化し社会で共有するようなプロジェクトや、行動ルールに違反した場合の制裁(非難)のあり方について、社会的なコンセンサスを形成するための討議を続けていくことが考えられよう。恋愛法学には、まさにこうした実践的なプロジェクトへの「架橋」としての役割が期待されなければならない。

*1:なお、筆者と高橋教授の文章との出会いは、筆者が16歳の頃に遡る。当時、未だ刑法学について何も知らない筆者は、同教授による犯罪論体系の歴史や意義についての分かりやすい説明(新倉修ほか『導入対話による刑法講義(総論)』〔第3版〕)(不磨書房、2006年)62頁以下)に出会い、「体系」を論じることの面白さに感銘したことを覚えている。

*2:本書の最大の見どころは、以上の規範構造論から「絶望の章」である共犯論に鋭いメスを入れる点であろうが、飽くまでも恋愛法学を主題とする本ブログでは、その紹介を割愛せざるを得ない。

*3:松原芳博『刑法総論』(日本評論社、2013年)

*4:前掲書『導入対話による刑法講義(総論)』においても、高橋教授は、体系がそれを論じる「目的」により決まることを説かれている。

*5:H.L.A. ハート(矢崎光圀訳)『法の概念』(1976年)101頁以下参照。