「不倫と非難」に関する覚書

 とあるお笑い芸人が、著名人の不倫報道に怒りの声を上げる人に対して「糞ブス」と嫌悪感を露わにしたブログの記事が話題となっている。同記事は「不快感の矛先は、不倫した人間ではなくて、不倫をした人間と何の関係もないのに、正義の名の下、怒りを露にしている糞ブスに対してだ」と切り出し、不倫の直接の当事者でない者が批判の声を上げている現状を「下品な魔女狩り」であると揶揄している。この記事に対するインターネット上の反応を見ると、「糞ブス」という表現の問題を指摘する声はあるものの、その主張自体は幅広い支持を集めているように見受けられる。昨今の過剰な不倫報道に対する嫌気が、視聴者の間でも徐々に共有され始めているのであろう。
 もっとも、この主張の当否に関してはなお検討すべき問題が存在するように思われる。少なくとも、この主張を一般化して、「いかなる非人道的な行為に対しても、直接の当事者でない限り、怒りの声を上げるべきではない」とすることはできないであろう。例えば、殺人や傷害といった犯罪行為が行われた場合にも、直接の当事者でない者が加害者を非難することがおよそ不当である、という言明は一般の支持を得られそうにないし、冒頭の芸人もそこまでの主張を意図しているわけではなさそうである。そうだとすれば、なぜ不倫行為について、直接の当事者以外の者に非難を差し控えることが要請されるのかを分析的に検討してみる必要がある。この問題の検討は、「色恋沙汰」に対する社会的非難の可能性と限界を模索する「恋愛法学」の本質的な課題であるともいえよう。
 まず、殺人や傷害に対しては社会的非難が可能なはずであるという上述の指摘に対しては、これらの行為が犯罪行為であることから、(少なくとも現在のわが国では「犯罪行為」とされていない)不倫の場合とは異なるという理解がありうる。しかし、「犯罪行為だから社会的非難をしてもよい」というのは論理が逆転している。むしろ、社会的非難に値する行為の中で重要なものが、犯罪行為として選定されていると考えるべきであろう。犯罪行為として法律が規定していない行為であっても、ある行為が社会的に禁止の対象とされており、その禁止(規範)の妥当性を維持するために当該行為を非難する必要があるという場合は十分に考えられるのである。
 そこで、まず検討すべきなのは、不倫行為が、このような「社会的な禁止」の対象に含まれているかどうかである。仮に、この点が否定されるとすれば、不倫行為を第三者が非難する余地はそもそも存在しないことになろう。この点で、件の芸人が「恋愛に関する善悪」の不可知性に言及している点が目を引く。もし仮に、実際に行われた不倫行為の善悪を確定することが原理的に不可能であるとすれば、不倫行為を「社会的な禁止」の対象から除外するという判断も一考に値しよう。しかし、認定論としてはともかく実体論として、不倫行為が現在の日本社会において、少なくとも価値的に是認されないものであることは明らかである。そもそも不倫の原義は「人の倫(みち)から外れたこと」である。不倫をする自由が市民権を得ているとは到底いえそうにない。不倫行為が例外的な事情により正当化されることがあり、そのような例外的な事情の存否が多くの場合第三者に不明であるというのは正しいかもしれないが、この点はまさに認定論の問題であると考えるべきであろう。
 もしも、不倫が「社会的な禁止」の対象に含まれている、換言すれば、「不倫をしてはならない」という社会規範が現時点で妥当しているとすれば、これに違反した者を非難してはならない根拠はどこに存在するのであろうか。
 ありうる可能性の1つは、不倫行為の「私事性」に着目した説明である。すなわち、不倫行為は当事者にとって極めて私的かつデリケートな問題であるため、第三者が根掘り葉掘りすることで、プライバシー等の「新たな利益」が侵害されたり、かえって話が拗れたりするであろうことが、社会的非難の可能性を制限する根拠になるという説明の仕方である。社会的非難を加えることによるメリット(規範の妥当性の維持・確保)を、社会的非難を加えることで生じるデメリット(「新たな利益」の侵害)が上回ると説明してもよいだろう。
 もっとも、この説明による場合には、不倫行為の被害者が第三者による非難を許容(ないし要求)した場合に悩ましい問題が生じる。この場合、被害者が、以上のような「デメリット」の発生に対して包括的に同意を与えているとして、再び不倫行為に対して社会的非難を加える余地が生まれると考えるべきなのか、あるいは、加害者も含めた不倫の当事者全員に「デメリット」の主張適格があると考えて、当事者全員が非難の発動を認めないかぎり、第三者による非難を認める余地はないと考えるべきなのかは、見解の対立が生じうるであろう。「デメリット」を構成する「新たな利益」の侵害に、加害者の名誉やプライバシーの侵害も算入すべきという理解を採れば、加害者の同意を必要とする理解と結びつきやすいであろうが、利益の帰属主体とその処分権者との分離を認める場合には、この結論も論理的に必然であるとはいえない。すなわち、「デメリット」に加害者の利益の侵害も含まれるとしつつも、規範に違反した張本人である加害者には当該利益の処分権が制限され、むしろ被害者がこの利益を自由に処分できるという理解もありうるのである。
 したがって、「デメリット」を理由とする社会的非難の制限を主張する場合には、そのような制限が「解除」されるための条件を明確にするために、(1)「デメリット」を構成する「新たな利益」侵害の範囲を明らかにしたうえで、(2)当該「新たな利益」の処分権者が誰であるかを確定する必要があるといえよう。
 最後に、不倫行為に対する社会的非難自体の正当性は認めつつ、その非難が過剰であることを根拠に、昨今の現状を批判するという方向性も考えられるであろう。「下品な魔女狩り」という表現からすれば、その主張の中心的な意図はこの点に存在するのかもしれない。特に、芸能人の不倫は大々的に報道されるため、社会的な耳目を集めやすく、一般人が不倫行為に及んだ場合と比較して、遥かに大規模な集中砲火を浴びせられることになる。しかし、「芸能人である」という事実だけで、このような集中砲火を正当化できるかどうかが問題である。非難の力点が不倫行為という社会規範の違反にのみ存するのだとすれば、主体が一般人であるか芸能人であるかは非難の程度と無関係であり、集中砲火は「過剰非難」ということになろう。これに対して、芸能人は社会的な影響力が強いため、社会規範の保持に対して特に強い責任を負っている等の理解を前提とすれば、一般人よりも非難が加重されることも一定程度は正当化可能と解する余地もある。もちろん、この場合でも無制約に非難が正当化されるわけではなく、責任に見合う非難の量を見定める必要があることは当然である。
 以上の検討から明らかなように、「不倫の直接の当事者でない限り、怒りの声を上げるべきではない」という言明を支持する論拠は多様であり、支持する論拠に応じて、この言明の射程も相当に異なりうる点は看過すべきではない。少なくとも攻撃の対象を、昨今の過激な不倫報道への便乗から、「直接の当事者以外の者による不倫行為への非難一般」に安易に拡張することには慎重でなければならないであろう。