浮気のアポリアからの脱却?

 恋愛法学における屈指の難問の一つである「浮気のアポリア」は、恋愛法の本質にかかわる問題でありながら、未だ解決を見ていない。そもそも、「浮気のアポリア」とは次のような極めてシンプルな事例の解決を理論的にどう説明するかをめぐって展開された問題である:
 〔事例〕 Xは、恋人であるVに絶対にバレる危険性のない浮気をした。Xの浮気行為は、恋愛法に違反するか?
 恋愛法学の萌芽期において、浮気行為の違法性はいわば当然視されており、〔事例〕においてもXには当然に恋愛法違反が成立するものと考えられていた。しかし、恋愛法の妥当根拠が自覚的に探究され、それが「恋人の感情」という法益の保護に求められた瞬間に、この〔事例〕は恋愛法学における究極のアポリアとして認識されるに至った。すなわち、バレる危険性のない浮気は、それが倫理的には否認されるべきものであるように感じられるとしても、「恋人の感情」を傷つける可能性は存在せず、したがって恋愛法的に当該行為を禁止する根拠は失われるのである。しかし、「バレなければよい」という耐え難い不正義を帰結することへの抵抗感から、法益保護主義に立脚する論者も含め、多くはこの場合にも何らかの法益侵害を見出すことを試みた。例えば、恋人の「浮気されない権利」や「浮気されないことへの信頼」を法益とすることで、バレる危険性がない浮気にも法益侵害が認められる、などとされたのである。このような動きに対して、法益保護主義を一貫して主張しようとする立場からは、むしろ〔事例〕において恋愛法違反が認められないのは当然であるとの批判が展開された。この立場によれば、恋人がいかなる意味においても傷つかないのに、何らかの法益侵害を見出そうとすることは、「法益のでっち上げ」であり許されない。「浮気されない権利」や「浮気されないことへの信頼」という新しい法益を認めるのであれば、およそ全ての行為が「○○されない権利・信頼」という法益の設定により禁止の対象とされ得ることになってしまう。しかし、法益保護主義の基本的な意義は、法的に保護されるべき利益を具体的・可視的に特定することで、禁止される行為の範囲を明確に画し、さらに禁止の必要性に関する検証・批判を開くことにあった。法益概念の恣意的な拡張は、法益保護主義の基本的な意義に逆行するものであり、法益保護主義の自殺と言わざるを得ないのである。
 このような理論状況において、法益保護主義の限界を率直に認めるべきであるとし、恋愛法により保護されるのは、恋愛社会システムがその構成員に課している義務そのものであるとするのが、恋愛法学における「義務侵害モデル」である。義務侵害モデルによれば、構成員が守るべき義務の設定は、恋愛社会システムの維持、ひいてはシステム構成員の利益保護を志向して行われるものの、一度義務が設定された以上は、当該義務自体が保護の対象とされ、具体的な利益侵害とは無関係に、義務侵害行為そのものに違法性が認められる。〔事例〕においても、Xは「浮気をしてはならない」という義務を侵害している以上、Xには恋愛法違反性が認められ、非難や社会的制裁の対象とされることになる。
 当然、義務侵害モデルに対して、法益侵害モデルは、主に功利主義的な観点から批判を加えた。義務侵害モデルは、人々の利益に役立たない場合にも義務的拘束を強いるものであるから、恋愛法の妥当根拠の実証的な基礎づけは全く放棄されているという攻撃がそれである。しかし、現代における義務侵害モデルは、理論的にも精緻化がなされており、とりわけ(ルール)功利主義的な観点からこれを根拠づけようとする見解が登場していることは注目に値する。これによれば、そもそも人間の認識は完全でないことが出発点とされる。特に、〔事例〕のように浮気をしようとする場面では、自己に有利に状況を解釈しようとする結果、認知に歪みが生じ、「バレる危険性」についての的確な判断が行われない場合が往々にしてある。このような前提からすれば、「バレる危険性」を個別のケースごとに判定する「法益侵害モデル」よりも、個別状況とは無関係に、浮気行為一般を禁止する「義務侵害モデル」の方が、功利主義的にむしろ優位な結論を導くことができる。ただし、このような功利主義的発想を前面に出せば、結局、個別のケースにおける行為者が、「利益侵害の可能性が存在しないこと」を抗弁として持ち出してくる可能性がある。このような抗弁を封じるためには──少なくとも表向きには──恋愛システム構成員の利益とは無関係に、義務・規範自体が保護の対象であると「宣言」しておくことで、その尊重意識を高める必要がある。つまり、「義務侵害モデル」は、構成員に対しては、各人の利益状況とは無関係に、ただ「義務を尊重せよ」とのメッセージを表向きに発することで、結果的に、功利主義的にも最善の帰結を実現しているというのである。
 理論的に極めて巧妙に説明された、以上の「義務侵害モデル」は論者自身が認めているように、自己欺瞞的な性格を有している。端的に言えば、ここでは「功利主義的正当化のために、功利主義が(表向きにだけ)捨て去られている」のである。この説明方法の当否は、慎重な検討を要するが、少なくともこのモデルが、恋愛システムの構成員の「自律性に対する不信」に根ざしているものであることは正確に認識されなければならない。それは、その説明の中に散りばめられた欺瞞的要素からも容易にうかがうことができるが、さらに、「義務侵害モデル」の論者が、個々の行為者によっては、「バレる危険性」の正確な判断がなされないであろうという前提を採用するのも、その自律的判断に対する不信に基づいているのである。これに対して、「法益侵害モデル」の論者が、法益侵害結果を禁止規範の中に取り込もうとするのは、行為者が、最も恋人を傷つけない方法を自ら選択することへの自律性に訴えかけようとするからである。両モデルの、規範設定におけるこのような根本的な態度の相違は、十分認識されなければならない。
 「義務侵害モデル」による指摘を待つまでもなく、構成員による恋愛法規範への尊重は、恋愛社会システムを維持し、ひいては構成員の全体利益を最大化(あるいは不利益を最小化)するために必要不可欠な要素である。しかし、多分に欺瞞的要素を含み、構成員の自律性を前提としないモデルが、果たして長期的に、規範尊重意識を保持するのに適しているのかは疑問なしとしない。一方向的な尊重要請は──恋愛関係が往々にしてそうであるように──いずれ破綻の引き金となるであろう。規範と構成員の間の相互の尊重意識のみが、両者を真の意味で繋ぎとめるのではないだろうか。以上の理由から、私見は、恋愛法における「法益侵害モデル」を基本的に維持しようとするものである。
 それでは、浮気のアポリアは、法益侵害性の不存在を理由に、やはり行為者に法規範違反性が認められないという帰結に到達せざるを得ないのであろうか。確かに、恣意的な新しい法益の設定は、法益保護主義を自殺に追い込むことは確認される必要があるが、法益保護主義の基本的意義を損なわない範囲で、恋愛社会の要請に応じた法益を設定することは、必ずしも禁止されるものではなく、むしろ必要なものである。その限界は厳密かつ慎重な見定めを要するところであろうが、「恋人の感情」以外の利益保護を恋愛法システムにおいて予め一切遮断してしまうことは不適切である。
 ここからは試論であるが、恋愛法において、恋人には、一定の範囲で、交際に関係する自己決定権が存することを認める余地があると思われる。すなわち、どのような属性の相手と交際を続けるかに関する決定は、恋愛法システムにおいて重要性が認められる範囲であれば、権利性の付与を認め、その侵害を恋愛法違反と評価することができるのではないだろうか。もちろん、相手の属性に関する全ての範囲について、このような自己決定権を認めることはできない(さもなければ、「キムタクと交際する権利」を、キムタクは日本中のファンとの間で侵害していることになってしまうであろう。)。しかし、相手が「浮気をするような人間」であるかどうかは、交際の自己決定や、恋愛における自己実現において、極めて重要な情報と位置づけることが許されるであろう。したがって、この場合の自己決定権は、相手が「浮気をするような人間」であるかどうかを「知る権利」として具体化されることになる。
 このような試論を具体的に適用すると以下のようになる。すなわち、〔事例〕において、Xは、浮気後に「それを正直にVに告げる」か「Vに隠し通すか」の2つの選択肢が与えられているが、前者を採用すれば、結局浮気はバレ相手の感情を傷つけてしまう(法益侵害A)。また、後者を採用しても、Vの「知る権利」を侵害してしまう(法益侵害B)。つまり、この状況において、Xは必然的に何らかの法益を侵害せざるを得ないのであり、〔事例〕におけるXの浮気行為は、そのような回避不可能な法益侵害状況に自らを投入する行為として、その原因において違法な行為と評価されなければならないのである。
 以上のように理解することで、法益侵害モデルを維持しつつ、〔事例〕におけるXの恋愛法違反性を肯定する形で、浮気アポリアからの脱却を図ることが可能である。もちろん、このような説明方法に対しても、恋愛法的保障を要する自己決定権の範囲を明確に画することは困難ではないかという批判が加えられることは容易に想定することができる。しかし、困難であることは、その実行を放棄することの正当な理由にはならないであろう。自律的恋愛法システムの形成を志向する本稿の立場からは、まさしく自律的なプロセスを通じて、その保障の限界を的確に見定めていく「義務」が認められなければならないのである。