恋愛法学の実践的役割について
恋愛法学は、恋愛の世界において妥当すべきルールの発見や構築を主な任務としている。これに対して、多くの学生から疑問を投げかけられるのは、その「実践性」についでである。すなわち、恋愛法学がいかに恋愛ルールを明らかにし、それを体系的に整理したとしても、現実の社会に対する働きかけを持たないのであれば、その実践的役割は皆無に等しいのではないかという疑問である。今回の講義では、この疑問が「誤解」に根ざしたものであることを明らかにしたいと考えているのであるが、そのためにはまず、社会規範というものの性格について若干説明することを要するであろう。恋愛法も社会規範の一つに属するのであるが、必ずしも法的な制裁(サンクション)や強制力を伴わない社会規範が、人々によって遵守されるのはなぜかという点から考えてみよう。
例えば、「浮気をしてはならない」という社会規範を考えてみよう。当事者が婚姻あるいはそれに準じた関係にある場合*1と異なり、単純なカップルにおいては、このルールを破ったとしても法的なペナルティーはない。それでも、大部分(であると信じたい)の人間が、この社会規範を遵守して恋人との生活を送っているという事実があることは、どのように説明することができるのだろうか。
一つのありうる説明は、その社会規範の内容である行動が、自分自身の利益の最大化と結びついているために、当事者の合理的な選択としてそれがなされるというものである。例えば、浮気がバレれば、相手との良好な関係が崩れ去り、長期的に見れば自身にとって不利益であるとか、あるいは、相手が悲しむことが自身にとっても苦痛であることから、浮気行動の回避を合理的選択とみなす、というようなことが考えられる。
しかし、この説明が全ての場合において成り立つのであれば、社会規範などという仰々しい装置は不要となる。なぜなら、それがなくとも人々は「それぞれ勝手に」浮気を回避しようとするはずだからである。もちろん、全ての人間が以上のような合理的な判断をするための能力やそれに必要な情報収集能力を備えているわけではない。したがって、予め社会規範という形で合理的な行動準則を判断主体に提示しておくことで、彼らの利益を保全することが社会規範の役割であるという説明はありうるであろう。けれども、社会規範の役割がこの点に尽きるとすれば、真に浮気による快楽を追求する者にとって、この社会規範は無力化しなければならないことになる。ここでは、「浮気をしてはならない」という規範言明が、彼の利益を最大化するための「1つのアドバイス」に成り下がっており、彼の真の快楽追求への劣後を余儀なくされてしまっているのである。このような見方においては、社会規範のまさに「守られなければならない規範」としての側面が看過されてしまっていることが明らかであろう。
重要なのは、社会規範が、彼の利益に「反してでも」守られなければならないということである。しかし、合理的経済主体モデルに立脚すれば、彼が彼の利益に反して行動をすることは本来あり得ないはずである。どうすれば、彼に、浮気による快楽の最大化を手放させ、「浮気をしてはならない」というルールに従わせることができるのだろうか?
この問いを解くための1つのキーワードが「規範の内面化」である。「浮気をしてはならない」というルールを、いわば骨身に「染み込ませる」ことで、これを破ることに不快感(しばしば「罪悪感」として語られる)を、また遵守することに快楽を感じるように彼の身体を作り変えてしまえばよいのである。この主観的利益の存在によって、本来合理的であったはずの浮気行動が、彼にとって不合理な行動に転化する。その結果、彼は浮気行動を「合理的に」回避することになるのである。経済学的な言い回しによれば、この人間は、社会規範の遵守によって効用が得られるような効用関数を持つことになるとも言えよう。この主観的利益こそが、「彼の利益に反してでも守られる」社会規範というマジックの正体なのである。
ただし、このような分析だけでは、社会規範の正体を「完全に明らかにした」とまでは到底言えない。なぜなら、「規範の内面化」というやはりマジカルなワードの意味内容が不明なままだからである*2。したがって、この「規範の内面化」がいかなるプロセスを辿り、どのような状況・条件のもとで実現されるのかを分析してゆくことが、重要な課題として残されることになる*3。
その困難な課題はさておき、冒頭の問いに戻ろう。「浮気をしてはならない」という社会規範に従う理由については、以上の検討の結果、大きく二つのものがあることがわかった。一つは、浮気をすることが、彼自身にとって不利益となるために、浮気をしないというものである。これは結局のところ、彼が自己の利益に従って行動したところ、結果的にルールの要求するところに合致したというだけである。より重要なのは、第二の理由、すなわち「浮気をしてはならないという社会規範に背くこと自体が不快だから(あるいは、遵守することが快いから)」浮気をしないというものである。ここに、「浮気をしてはならない」という社会規範の真の存在意義が認められる。この社会規範は、浮気の誘惑に駆られた者からその不当な利益追求選択を取り上げ、他方で、危うく深い悲しみの淵に立たされるところであった彼の交際相手を、より甚大だったはずの不利益から救ったのである。
こうして我々は、恋愛社会規範の一つである「浮気禁止規範」が、恋愛法共同体における行動統制システムとして、その消極的功利主義的理想(「最小不幸社会」)を実現する際の大まかなメカニズムの理解に到達した。
ここから、自ずと恋愛法学の役割と実践性も明らかになってくるであろう。恋愛法学は、我々の恋愛社会における不幸を最小化するために、その構成員全員が守るべき普遍的ルールの内容を明らかにすると同時に、そのようなルールを、まさに「利益に反してでも守られなければならない社会規範」として、人々の身体に染み込ませる──「規範の内面化」──も、その任務として負っているのである。具体的には、そのための方法を考察する必要があるのであるが、言うまでもなくその前提として、先ほど「さておいた」困難な課題に取り組まなければならない。つまり、恋愛規範が内面化するプロセスを精緻に分析しなければならないのである。
この困難な課題は、今回の講義で片づけることが到底不可能なものであるが、そのヒントは「恋愛法学」自体に埋め込まれているのではないだろうか?社会規範を身体に「染み込ませる」ということは、その表現とは裏腹に、外部からの「押しつけ」によって実現可能なものではなく、むしろ当事者が自発的・内発的に当該規範を尊重する姿勢が不可欠であるように思われる。それは、我々が維持していくべき恋愛のルールが何かを考えるという、まさに恋愛法学の試みに他ならない。全ての恋愛する人々が、この恋愛法学の討議に参加し、「守られなければならないルール」を共同して構築してゆくことが、恋愛規範の内面化において欠くことのできないプロセスなのではないだろうか。恋愛法学が、その実践性を手に入れるために必要なのは、他ならぬ「恋愛法学の実践」なのである。
いわばイデオロギーとしての「自由恋愛」主義は、価値観や恋愛観の多様化に伴い、強力に推進されてきた。しかし、その結果として、恋愛において尊重されるべき社会規範は曖昧化され、恋愛をする人々の手から徐々に喪失されてしまっているように思われる。そこに待ち構えているのは恋愛の荒廃と空虚化であろう。このような状況をせき止める最後の砦として、恋愛法学の実践的役割の重要性は、強調するに余りあるものであるということを指摘しておきたい。
*1:この場合には、不貞行為が不法行為(民法709条)に該当し、損害賠償責任という名の民事制裁が発動する可能性がある。さらに、現在の日本とは状況が異なるが、例えば刑法に姦通罪の規定が置かれていれば、刑事制裁の発動可能性が認められる場合もあろう。
*2:藤田友敬=松村敏弘「社会規範の法と経済―その理論的展望─」ソフトロー研究第1号(2005年)64頁も、規範の遵守による主観的利益という説明は、結局何でも事後的に説明するものに過ぎず、「なぜ人は社会規範に従うのか」という問いに対する「最も安直な解答」であるとしている。もっとも、同論文も、「社会規範を遵守すること自体が主観的利益をもたらすような状況・条件が特定できたり、その構造が明らかにできたりする」のであれば、このような説明にも意義が認められるであろうことを肯定している。
*3:飯田高『<法と経済学>の社会規範論』(2004年)63頁以下参照。